たまごと大根?そんなん知らん。手羽先とタケノコのおでん

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たまごも大根も入ってない。手羽先とタケノコのおでん

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おばあは毎朝7時、近所のおばあ仲間と集まってウォーキングをする。横文字が苦手なくせに僕が「散歩やろ」と言うと、「ウォーキングや」とすかさず訂正してくる。どうやらおばあの頭の中にある散歩のイメージは、退職した男性がヒマでヒマでしかたなく、目的もなく友達もなく、ひとりであたりをぶらついているような陰気なものらしい。さらに、

ヒマな老人+無目的な散歩=徘徊

なるネガティブな方程式も、おばあの頭の中で成り立っているようだ。だから、おばあが仲間と連れ立って公園の周囲を一時間、一万歩にわたって練り歩く行為を、あくまでウォーキングだと言い張るのだ。

これまでのおばあの話を総合して考えると、
ウォーキングの条件は以下の2点ということになる。
①仲間がいること
②目的があること

おばあの「ウォーキング」は①を満たしていることは明らかだし、②の「目的」についてもいろいろある。仲間とおしゃべりすること。一万歩あるいて健康を維持すること。そして草花や鳥、公園で遊ぶ人々のファッションをチェックして四季折々の風流を楽しむこと。などなど。僕との会話の端々におばあが「ウォーキング」で見聞きしたことがちりばめられている。

だからおばあは僕よりも、季節に対する感性が豊かだ。毎年かならず訪れる季節のものごとをリアルタイムで感じ取り、いち早く衣替えをし、料理に反映させる。おばあは季節感に裏打ちされた、日本人らしい「常識」を持っている。

僕はそう思っていた。今日、おでんを自分の皿に取り分けるまでは。

茶色く煮込まれた具材がひしめく鍋を見て、僕はうれしくなった。じっくり煮込んで白身全体がうすい醤油色に染まったたまごと、一切れ口に入れるとダシがあふれ出す大根が、夕飯を食べにおばあの家に向かう道中、寒風に吹かれて冷え切った体を温めてくれる。その他の具材は、たまごと大根の魅力を引き立てる脇役にすぎない。おばあも僕と同じ「常識」を共有していると思っていた。

ところが、いくら鍋にお玉をつっこみ、底の具材を引き上げても、たまごも大根も姿を見せない。どちらも崩れやすいデリケートな具材だが、気にせず箸でかき回してみる。やっぱり見つからない。するとおばあが「鶏肉は、底の方に沈んでるやろ」と声をかけてくる。ちがう、僕が探しているのはそんなんじゃない、ていうか、鶏肉?

たしかに僕が掘り返した鍋には、くの字に曲がった手羽先がいくつも姿をあらわしていた。さらによく見ると、タケノコらしき具材も、ちくわや厚あげに挟まれて窮屈そうに曲がっている。タケノコといえば、春先の味覚ではなかったのか。なぜ冬に食べるおでんに入っているのか。おばあが日々楽しんでいるはずの季節感がむちゃくちゃだ。

タケノコを箸でつまむと、「冷凍してたんや」とおばあは誇らしげに言う。どうしてタケノコと手羽先をおでんに入れたのか尋ねると、「おいしいからや」との返事。たまごと大根はどうしたのかと聞くと、「そんなん知らんがな!」とキレられた。

タケノコと手羽先はうまかった。どちらの具材からも味が染み出して、これまたダシがいい。そのダシを吸った他の具材も、さらにおいしくなっているように感じる。

「おいしいもを食べるためなら、春のタケノコだって冷凍しておでんに入れるんや。たまごと大根なんて知らん。目的のためなら、『常識』なんて捨ててまえ」という、おばあのメッセージが伝わってきた、ような気がする。