僕の祖母、おばあが患っているパーキンソン病は、手足の震えや筋肉の硬直が起こり、思った通りに体が動かせなくなっていく。
筋肉の病気というより、脳や脊髄の神経細胞が失われることで症状が進行する“神経変性疾患”だ。アルツハイマー型認知症やALS(筋萎縮性側索硬化症)も、この“神経変性疾患”の一種で、どれも根本的な治療法が存在しない。
つまりパーキンソン病は完治することがなく、次第に脳細胞が減って体の自由がきかなくなり、やがて寝たきりに・・・・・・って、なんてやっかいな病気なんだ!?
医者の説明を聞いて、本人もさぞショックを受けているはず……。そう心配しながら隣を見ると、あくびを噛み殺してヒマそうにしている……って、ことの重大さ、全然わかってへんやろ、おばあ!
おばあは病名を告げられる前も後も変わらず、平然としている。
こんな満面の笑顔も見せてくれる。僕だったら、笑ってなんていられないと思う。
だけど病気が発覚して1年半経った今ならわかる。いくら慌てたところで病気は治らないのだから、症状が進んだときのことを先回りしてあれこれ考えたって、不安で苦しい時間が増えるだけだ。
おばあは不治の病にかかってさえ、気楽に生きる心構えを、心配症の僕に身をもって教えてくれているみたいだ。本人はそんなつもりは全くないかもしれないけど。
とはいえパーキンソン病は、最初の数年間は薬がよく効き、症状を軽くおさえられるらしい。その期間は“ハネムーン期”と呼ばれ、3年から5年ほどは以前とほぼ変わらない生活を送ることができる。
“ハネムーン期”なんて、いかにも幸せな響き! きっとおばあも数年間は、福祉施設に通うデイサービスを利用しながら、これまでと変わらず自宅で暮らすことができるはず!
そう思っていたのに……。
たしかにしばらくは、パーキンソン病に有効な訪問リハビリや、入浴やレクリエーションも楽しめるデイサービスを利用しながら、自宅で暮らすことができていた。僕もおばあの家に通い、料理を作ったりトイレに誘導したりして、微力ながら生活の介助をしていたのだった。
ただ、僕はそれまで料理は食べることが専門だったから――
こんな顔をされることも。
僕は料理を作っては、おばあの感想に一喜一憂し、さらに喜んでもらえるものが作れないかと試行錯誤していた。
そのあいだも、おばあの病状は急な坂を転げ落ちるように日に日に進行していった。
やがて、人の助けがあれば日常生活を送れていた“要支援”から、一年ちょっとで“要介護”になり、ひとり暮らしで生活するどころではなくなった。
自宅ではいくら手助けされても、食事や水分をじゅうぶんに摂ることが難しくなった。医者に診察してもらうと軽い脱水症状であることが判明。おばあにとって自宅で暮らすことが幸せなことだと思っていたけど、もはやそうも言っていられない。
一度入院し、点滴で栄養と水分を補給して、元気な状態になるのを待ち、24時間看護師が常駐する高齢者用の施設で暮らしてもらうことになった。
さいわい徒歩圏内に、地元で90年続く介護の会社が運営する、評判のいい施設が見つかった。
話を聞きに行くと、現在の社長は3代目で、先代も創業者も昔からおばあのことを知っているという。しかも先代はおばあと同世代で、書籍『おばあめし』を寝る前に読むのを日課にしている愛読者だった。
(⇧書籍『おばあめし』📗おばあと僕の10年にわたる喜怒哀楽が詰まっています)
おばあにも話すとうれしそうで、縁を感じたその施設に入居が決まった。
おばあは現在、栄養状態もよく、2日に一度は僕がたずねると笑って名前を呼んでくれる。ただ、会話はできるけど、パーキンソン病のせいですぐに眠くなってしまう。写真を撮っても寝ているようにしか見えない状態が多いので、まだ載せないでおく。
もう少し元気になったら、車イスに乗って一緒に公園に行こうと約束した。そのときにまた――
この投稿をInstagramで見る
こんな笑顔で写真が撮れたらいいと思う。
次回に続く――