ひと嗅ぎでごはんが欲しくなる、甘辛い濃厚な香りが玄関にまで漂ってきている。醤油ベースの和風の味付けに、たっぷりの肉を加えて熱したようなこの芳醇な香りは肉じゃがか、まさかすき焼きか! どちらにしろ、ごはんに合うことは間違いない!
今日は仕事が忙しく、いつもの晩ごはんの時間に遅れてしまった。昼食もろくに口にできなかったので、もう空腹でたまらない。普段は控えている白めしを、今晩ばかりは思い切りかき込みたい。何しろおかずも最高にごはんに合う、僕の好物に違いないのだ!
食欲をそそる香りに導かれ、食卓へと急ぐ。
メニュー
・豚肉と玉ねぎの甘辛煮
・タケノコの炊いたん
・オクラのかつお節和え
・酢の物
タコ、ワカメ、キュウリ
・茶碗蒸し(ふじや食品「地養卵茶碗蒸し海老」)
・サラダ
生:玉ねぎの醤油漬け、トマト、キャベツ 茹で:ブロッコリー、アスパラガス、ほうれん草
・ごはん
テーブルにはごはんにぴったりな和風のおかずがずらりと並んでいた。
見るからに味の染みたタケノコの煮物や
市販の茶碗蒸しは僕の好物だし、
酢の物や、
オクラのかつお節和えも箸休めにちょうどいい。でも、今晩のメインはこれじゃない。腹を空かせた僕を引き寄せる香りの発生源はこの――
肉と玉ねぎを煮たやつだ! ってこれは何なんだ!? 肉じゃがでもすき焼きでもない、おばあがあり合わせの食材で甘辛く味付けしただけの、名もないオリジナル料理……いや、これは見たことがあるぞ。吉野家とかすき屋で何度も食べた牛丼の具だ! 目の前のものは豚肉のようだから正確には豚丼の具である。
たまらずひと口食べてみると、味もそっくりだ。ごはんに手を伸ばしたい衝動をぐっとこらえる。食べちゃダメだ、食べちゃダメだ。このまま別々に食べるより、もっと素晴らしい食べ方があるんだ、と自分にいい聞かせてひとまず深呼吸をする。すると突然、
「ああっ!」
と向かいの席から悲鳴のような声が上がった。
何ごとかと目をやると、先に食事を終えていたおばあが、テレビで中継している日本とウルグアイのサッカーの試合を前のめりで応援していたのだった。
おばあが哀れでならない。ほとんど外食をしないおばあは牛丼も豚丼も食べたことがないはずだ。今晩、偶然にも豚丼の具材をつくり出したのに、そのことを知らず、ごはんと別々に食べ終え、ルールもろくに知らないサッカーに熱狂している。おばあが無上の喜びとするのは、おいしいものを味わうことだったはず。そのチャンスを逃したことにも気がつかず、歓声を上げている姿は滑稽に見える。僕がいつも通りの時間にごはんを食べに来ていたら、もっとおいしい食べ方を教えてあげることができたのに……。
そんな僕の気も知らないでおばあは、
「あれ大迫やって! お前と一緒や」
とテレビに向かって指をさしている。たしかにゴールを決めたテレビの中の大迫は〝半端ない”。でも今の僕にとってそんなことはどうでもいい。とにかく半端なく豚丼が食べたいんだ!
ひときわ輝いて見える押し麦入りのごはんに、豚肉と玉ねぎをすべて盛りつけると、茶碗の上には――
黄金色に照り輝く山がそびえ立った。どうだ、これを見ろ! 僕は茶碗を持ち、おばあに向かって突き出した。すると横目で、
「……それなんや?」
「豚丼や! こうやって食べるとうまいで!」
僕は力を込めていった。ところがおばあは、
「そうか」
と気のない返事。テレビからは観客の叫び声が聞こえてきた。おばあも一緒に声を上げたかと思ったら、
「ああ、同点か」
つまらなそうにいって席を立った。なんで日本代表が同点に追いつかれたくらいで、そんなにあっさりと興味をなくすんだ。これからが面白いんだよ! それになんで、こんなおいしそうな豚丼を無視できるんだ! おばあのわからずやめ! こうなったら一気食いしてやる!
僕は豚丼の具を口に放り込み、ごはんをかき込んだ。ほら思った通り、いやそれ以上にごはんに合って、うまい! 会社帰りに牛丼をしょっちゅう食べていた、沖縄で一人暮らしをしていたころのことが不意によみがえってきた。夢中で食べていると、テレビから歓声が聞こえてきた。
「日本がまた点入れたで!」
台所に向かって叫ぶと、
「大迫勇也か!」
としわがれ声が返ってきた。
「違うわ!」
と僕は叫んだ。おばあがまた何かいったけど、聞こえてないフリをして豚丼をほおばった。