ひな祭、忘れていない祖母(おばあ)と孫(男)

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祖母の友人が手作りした雛飾り(お内裏様とお雛様)

3月3日。今年もこの日がやってきた。自宅を出てからおばあの家まで、歩いて5分かかるところを、今日は半分以下の時間で着いたはず。小走りしてきた勢いのまま、戸を開けて玄関に飛び込んだ。いつもと違う玄関の様子を見て、僕の期待はさらに高まった。

靴箱の上に仲良く並んで座っているのは、色紙でできたお内裏様とお雛様。複雑な形のお雛さまの髪飾りやお内裏さまの烏帽子など、細部まで丁寧に手が加えられている。

祖母の友達が手作りした雛飾り(壁掛け)

壁には色紙を立体的に張り合わせた花飾りと、「ひなまつり」と書かれたかわいらしいイラストを割りばしでできた額で挟み込んである。どの飾りも、たぶん手芸が得意なおばあの友達が制作したものだ。

去年、おばあはちらし寿司を大量につくって、知り合いに配っていた。そのお礼に今年、義理堅いおばあの友人から手づくりの雛飾りをもらったのだろう。あのときのちらし寿司は、具だくさんで見た目もカラフル、お酢の加減もちょうどよかった。僕は食べたあとに「来年も絶対につくってほしい」と、おばあに頼んだのだった。

それから僕は、一か月ほど前から、女の子の節句を密かに心待ちにしていた。あと4日で30代も中盤にさしかかる男として、あまり知られたくない楽しみだったので、誰にもいっていない。特にデリカシーのかけらもないおばあからは、何をいわれるかわからない。「雛祭りにちらし寿司つくってや!」と、数日前から念を押したかったけどできなかった。

最近、忘れっぽくなっているおばあが、一年前の僕の頼みを覚えているのか心配だった。だけど玄関の雛飾りを見る限り、おばあも今日が何の日か忘れていないようだ。近ごろ何かと面倒くさがるおばあにしては、もらった飾りをちゃんと壁や靴箱の上に並べているのも、雛祭りへの意気込みを感じさせる。このぶんだと、ちらし寿司も期待できる。

祖母が買ってきた雛祭の寿司

メニュー
・ひな祭りの寿司セット(商店街で買ってきた)
ちらし、サーモン、エビ、イカ、甘エビとイクラ、カニとたまご
・煮物
里芋、手綱こんにゃく、たけのこ
・味噌汁
白菜、たまご、ネギ

テーブルの上には、たしかにちらし寿司があった。赤と白のひし形の容器の中に、色とりどりの具材がちりばめられている。ちらし寿司の他にも、サーモンやエビ、イカ、カニなど、まん丸い小さな手毬寿司が詰まっている。ひとつひとつ繊細に丸められた形も、鮮やかな見た目もおいしそう……だけど、これは、おばあがつくったもんやない! 商店街の持ち帰り専門の寿司屋で買ってきたやつやろ!

おばあは今日が雛祭だということはしっかり覚えていた。でも去年、僕が頼んだことはすっかり忘れ去られていたのだ。

ひな祭りに祖母が買ってきた手毬寿司(甘エビとイクラ)

寿司ネタをよく見ると、甘エビがある。
「これだけ、食べてや」
とテーブルの向かいのおばあにいうと
「なんでや!」
とわけがわからず不満そうな口ぶり。

僕は生のエビを口にすると、唇やのどが腫れて強いかゆみに襲われる。それを何度も強く伝えてきたはずなのに、おばあは忘れている。一年前の頼みごとなんて、覚えているはずがない。

ここで僕がおばあを攻めたところで、「そんなん知らん」といわれるのがオチだ。言った言わないの水掛け論になると、かんしゃく持ちのおばあは声を荒げ、収拾がつかなくなる。

それよりも、僕一人では手に取りにくい、雛祭用のかわいい寿司を買ってきてくれたことに感謝すべきだろう。こういう具材が多くて繊細で色鮮やかな食べ物は、けっこう好きだ。おばあとケンカするより、好きなものをおいしく食べたほうがいい。

そういえば去年は、お雛さまの形をした和菓子を、おばあは買ってきていた。今年も何かデザートがあるのかもしれない。
「甘いものも買ってきてるんか?」
おばあに聞いてみると、
「そこにあるやろ」
と寿司の容器の端を指さす。

雛祭の寿司に入っている桜餅

赤と白のひし形の一角には、ピンク色の餅を葉っぱでくるんだ、手毬寿司サイズの桜餅がちょこんとおさまっていたのだった。もち米のつぶつぶが残る、道明寺粉でつくった関西風の桜餅だ。普段、なかなか口にする機会のないデザートまでついていて、この寿司セット、抜かりがない。

僕は一気に食べ進んだ。甘い桜でんぶや、味がしみ込んだシイタケやわらびなど、具だくさんのちらし寿司は、一口ずつ違う贅沢な味わい。手毬寿司はどれも軽く口におさまった。スペースに余裕のある口の中でじっくり堪能する。桜餅も一口で、口の中に消えた。道明寺粉のつぶつぶが粒あんと混じり、ねっとりとした甘みが広がる。最後に桜の葉の香りがやってきた。

見た目もかわいくて、サイズも女の子らしかった。おいしかったけど、僕には量が少なすぎる。もう1セットくらい食べられそうだ。やっぱり、おばあのボリューム満点の手づくりちらし寿司に比べたら物足りない。
「まだ他に何かある?」
念のために聞いてみる。するとおばあは、僕のひし形の容器に目を向け、
「まだ、残っとるやろ」
と怒ったようにいう。

アレルギーで食べられなかった甘エビの寿司

僕が生のエビが食べられないことを告げると、おばあの視線は宙をただよい、何かを思い出したように何度かうなずいた。そして立ち上がり、ストーブの上にあったアルミホイルの包みを僕に向かって差し出した。

アルミホイルに包まれたさつまいも

ストーブの上で焼いたさつまいもを割ったところ

中身はスートーブでじっくり焼いたさつまいも。これならお腹がふくれる。

タイのお土産のクッキーのパッケージ

さらにおばあは台所に歩いていくと、箱を抱えて戻ってきた。箱の中から小さな包みを、僕の前に置いた。

タイのお土産の象の形のチョコチップクッキー

中身は象の形をしたクッキーだ。

タイのお土産の象の形のチョコチップクッキーの箱

タイに旅行に行った知り合いが、土産に買ってきたものらしい。チョコチップも入っていて、生地の舌触りはしっとりしていておいしい。こういう土産でもらった甘い菓子は、おばあがこっそり全部食べてしまうことがほとんどだ。それをわざわざ台所から、箱ごと出してきたというのは、何のつもりだろうか?

おばあは僕の食物アレルギーのことと一緒に、ちらし寿司をつくってほしいという願いごとも思い出したのかもしれない。

素直に聞いてみることにした。
「ちらし寿司のことなんやけど――」
「その、クッキーちょっと取ってくれ」
おばあは僕の話をさえぎり、手を出した。やっぱりおばあは思い出したのだ。僕は嬉しくなり、小袋を次々と破って象の形のクッキーをおばあに手渡した。