僕は見てしまった。残り少なくなったマヨネーズのチューブの先に、おばあが直接口をつけ、息を吹き込んでいたのを……。
チューブの中に空気をためて逆さまにしておくと、中のマヨネーズが自然と先のほうに下りてきて、最後まできれいに使い切ることができる。そうだとしても、口で空気を入れられるのだけは嫌だ。チューブのフタを開けて横から押すとか、ネジになっている先っぽを外すとかすれば、ひと手間増えるけど空気は入るのに。それが面倒なら、最後まで使い切らなくていい。新しいやつを僕が買ってくるよ!
僕はマヨネーズのチューブに口をつけたことなんて、一人暮らしのころから一度もない。雑菌がついて腐りやすくなるからだ。それに、あのときのおばあは、風邪ぎみで咳が出ていた。なかなか風邪をひかないはずのおばあに感染した強力なウィルスが、マヨネーズを通して僕にうつってしまう。
そもそもおばあは衛生観念がなさすぎる。人が口をつけたものを、自分の口に入れるのを嫌だとは思わないのか。たぶんおばあは平気なのだろう。だからマヨネーズを使ったあとにおばあは、僕の目の前で平然とチューブに口をつけ、ほっぺたが膨らむほど力を込めて空気を吹き込んでいたのだ。
何が悪いのかわかっていないおばあに、僕がいくら注意をしても無駄に決まっている。おばあは理不尽に文句をいわれたと感じて、僕を大声で罵るだろう。嫌な思いをするくらいなら、黙っておいたほうがいい。
こうして僕は密かに、おばあの家でマヨネーズを使うことを諦めたのだった。それからもう1年以上になる。毎晩出てくるサラダにも、たまにポン酢をかけるくらいで、たいてい何もかけずに食べている。おかげで野菜本来のおいしさがわかるようになり、最近おばあが春キャベツを使い出したことも微妙な味と食感の変化で気がついた。
ところが今晩、食卓に並べられたおかずを目にした僕は、久しぶりにマヨネーズをぶっかけたい衝動にかられた。
メニュー
・豚肉の焼いたん
・大根おろし
・煮物
厚揚げ、里芋、手綱こんにゃく
・味噌汁
油揚げ、白菜
・サラダ
生:トマト、キャベツ 茹で:ブロッコリー、アスパラガス、ほうれん草
・ごはん
メインは厚切りの豚肉を焼いたもの。味付けはシンプルに軽く塩を振っているだけ。焼き加減はウェルダンで、表面がちょっと固くなっている。
塩だけで焼いた豚肉の味わいに、やわらかな酸味がぴったりだし、焼きすぎたことで抜けた脂分を補ってくれる。マヨネーズのおいしさを最大限に生かせるおかずが目の前にある! そう思うといてもたってもいられなくなった。
自分では特にマヨネーズが好きだと思ったことはないけど、禁止していた1年のあいだに、すこしずつマヨネーズへの欲求が蓄積し、ついにあふれてきたのだ。台所までダッシュして、冷蔵庫のマヨネーズのチューブを鷲づかみにしてきて、豚肉の上に絞り出したい!
だけど、この家のマヨネーズは、おばあが口をつけている。買い置きの新しいやつが冷蔵庫の奥にあったりしないだろうか。たとえあったとしても、古いものが残っているのに新しいものを出してくると、おばあに怒鳴られるのは確実だ。それでも僕は、マヨネーズをかけたいだろうか。目をつぶって考えてみる。
僕は1年以上もマヨネーズを断ってきた。今晩一度、おばあに大声を出されることくらい何でもない。そもそも、僕がこうして悩まなければいけないのは、共同で使うマヨネーズのチューブに口をつけていた、何がきれいで汚いかもわからないおばあのせいだ!
決心がついた僕は目を開けた。するとおばあがテーブルの向かい側から、僕の席に手を伸ばしていた。おばあが手を引っ込めると――
マヨネーズだ! キューピーの絵と6グラムの表示がある、小分けになった使い切りのやつが、料理の皿に立てかけられていた。
おばあは僕がマヨネーズを使わなくなったことに気がついていたのだ。こうして小分けになったものを用意しているということは、その理由もちゃんと理解しているのに違いない。使い切りタイプだと口どころか空気にも触れていなくて衛生的だ。
わかっているなら、もう口はつけないと一言いってくれれば、僕だってチューブのものを使ったのに。割高な小分けのものを買ってくる必要もなかった。
とはいえ今晩、マヨネーズが使えるのはありがたい。僕は心の中でおばあに感謝しつつ、マヨネーズの袋の端を点線に沿って手で破り、焼いた豚肉の上に中身をすべて絞り出した。
量はちょうどいい。切り分けられた豚肉に、まんべんなくマヨネーズが行き渡った。
さあ食べよう! と箸を手に取る。そしてふと目を上げると、おばあと目が合った。おばあはあごをしゃくるようにして、僕のおかずの皿を示し、
「それも、のせてみい」
といった。
今日のメニューには、大根おろしがあったのだ。一部が黒く色づいているのは、おばあがあらかじめたらしてくれた醤油らしい。軽くかき混ぜてから、マヨネーズの上から大根おろしをのせる。するとおばあも、マヨネーズを自分の豚肉の上に絞りはじめた。
マヨネーズの口当たりと酸味、大根おろしの甘味と辛味、醤油の香りと塩気が、すこし焼きすぎた豚肉にぴったり合っている。豚肉の表面は固いけど、中はまだ柔らかく、噛めば肉汁が染み出してきた。大根おろしで後味がさっぱりとして、飲み込んだ瞬間に次の一切れがまた欲しくなる。
「これ、うまいな!」
僕がいうと、
「そうやなあ」
とおばあが返す。口に何かをくわえているようなしゃべり方だ。目をやると、おばあは小分けになったマヨネーズの袋の端を口に入れ、今度はほっぺたがへこむほど思い切り吸い込んでいた。