急な仕事が入って対応していた。いや、トイレの排水があふれてきたことにしたほうが緊急な感じがあるかもしれない。それよりも、家の鍵が見つからなかったという方が現実的か。
いつもの晩ごはんの時間に50分、無断で遅れたいいわけを考えながら、僕は歩いておばあの家に向かっていた。15分遅刻しただけでもおばあは露骨に機嫌が悪くなり、その晩は口もきいてくれなくなる。
最近、睡眠不足が続いていたからか、夕方に突然、眠気が襲ってきた。ちょっと眠るつもりで床に横になり、気が付いたときにはもう窓の外は真っ暗。2時間以上も寝入っていた。
遅れた時間が50分、しかも本当の理由が寝過ごしていただけだなんて知られると、どんな仕打ちをされるかわからない。僕が朝と昼に食べるために持って帰るおにぎりの具材に、あんこでも詰められそうだ。
あんこ入りのおにぎりを回避できそうな案が何も思いつかないまま、おばあの家に着いてしまった。恐る恐る居間の戸を開けると、おばあはストーブで暖まりながら、テレビでオリンピックのスピードスケートを見ていた。外国人選手の名前を、男のアナウンサーが大音量で連呼している。おばあの席はきれいに片付き、僕の席には料理が並んでいる。
「台所に行け」
とおばあが、僕に目も向けずにいった。テレビの音量と同じくいつも大声のおばあが、抑揚なくつぶやくようにいうのが、かえって怒りの大きさを示していた。僕はジャンパーも脱がず黙っていわれた通りにする。
僕を台所に立たせて何をさせようというのか。まさか、僕自身に妙な具材のおにぎりをつくらせようというのではないか。それを持ち帰って明日の朝と昼に食べろ、と無茶な要求を突きつけてくるのかもしれない。もちろん今晩のごはんは抜き! なんてことになったら厄介だ。
おばあは最近、物忘れがひどいのに、腹の立ったことだけはいつまでも覚えていて、ますます執念深くなっている。こうなったら遅刻のいいわけなんかせずに、素直に謝ってしまったほうがよさそうだ。
謝罪の言葉を考えながら台所に足を踏み入れると、コンロの上には味噌汁の入った鍋が、フタが開いたままのっていた。お玉で混ぜると、味噌が濃そうな汁の底から、脂身が白い薄切りの豚肉がひらひらと湧き上がってきた。僕の好きな豚汁だ!
シンクの上にはいつも汁物を入れるお椀が置いてある。お椀の底のほうには汁がすこしたまり、豚肉のかけららしい白いものが側面にいくつか張りついている。おばあは一度、このお椀に豚汁を入れて、中身をまた鍋に戻したようだ。なぜそんなことをしたのか? 僕の席に置いていた豚汁が冷めてしまったからだろう。おばあは温かい豚汁を食べさせるために、僕を台所に向かわせたのだ。無断で遅刻をした僕に罰を与えるためなんかじゃなかった!
火をつけた鍋が沸騰すると、おばあの田舎の自家製味噌とカツオだし、そしてたっぷりの豚肉が合わさった香りが立ち上り、金色の脂が浮いてきた。嗅ぐだけで濃厚なうま味が舌の上に現れるようで、口の中に唾液があふれてくる。香りだけでごはん1杯食べられそう。
あつあつの豚汁をよそったお椀を手にして、僕は食卓についた。
メニュー
・カレイの炊いたん
・豚汁
豚肉、大根、白菜、豆腐
・煮物
エリンギ、里芋、手綱こんにゃく
・紅白なます
大根、にんじん、サバ
・サラダ
生:ミニトマト、キャベツ 茹で:ブロッコリー、アスパラガス、ほうれん草
・ごはん
食卓には、ひときわ光り輝くおかずがあった。ふっくらとした切り身の全体に飴色の照りをまとったカレイだ。今日の煮付けは、見るからに会心の出来だ。思わず僕は箸をつける。ふわっと身がほぐれ、飴色の煮汁と透明な脂があふれ出る様子は、ますます食欲をそそる。
それを口に運ぶと……冷たい。僕が遅刻した50分のあいだに、すっかり冷めきっている。それでも身はやわらかく、ショウガが効いた煮汁の味もいい。これで温かかったらどれほどよかったか。
後悔しながらお椀に手を伸ばす。豚汁は熱く、うま味も味噌も塩気も濃く、おいしい。ところでなぜおばあは豚汁を鍋に戻し、僕に温め直させたのに、カレイの煮付けはそのままなのだろうか? たしか台所には、煮汁の残った片手鍋がまだ置いてあった。あの鍋に戻しておいて、豚汁と一緒に僕に温めさせたら、このカレイの煮付けも最高の状態で食べられたのに……。
あえて出来のいいカレイの煮付けを冷たいまま放っておく。豚汁を温めさせることで、その冷たさが際立って、僕は遅刻したことを深く悔やむ。これこそが、おばあの罰ではないのか。いや、単純で短気なおばあが、そんな複雑で遠まわしな復讐を考えるはずがない。
だけどまた豚汁をすすり、カレイの煮付けを口に入れると、僕は自分の行いを悔い改めずにはいられない。
「煮物も食べてみい」
とテーブルの向こうからおばあがいう。
煮物の具材は里芋と、手綱こんにゃく、そしてエリンギ! 初めての煮物の具材だ。おばあがわざわざすすめるということは、この煮物の出来にも自信があるのだろう。
エリンギを箸でつまんで口に放り込む。心地いい歯ごたえとともに、ダシの効いた甘めの煮汁が染み出てきた。だけど……冷たいのだった。
エリンギを噛みしめていると、相変わらずテレビのスピードスケートを真剣に見ていたおばあが、にやりと笑った。