桜が散って、また一段と暖かくなると、日の当たらない部屋の中にはもう蚊が出没するようになった。今朝も寝ている僕のおでこや首筋からたっぷりと血を吸われ、かゆみで目が覚めた。もうひと眠りしようと思っても、ゴミの収集日でもないのにカラスの集団が、隣の家の屋根で騒ぎ立てている。
うるせー! と布団を頭までかぶっても、おでこがかゆくてじっとしていられない。それに、たまらなくお腹が減っていることに気がついてしまい、結局、寝覚めが最悪のまま布団から這い出す羽目になる。
暖かくなって、食べ物を求めて動き出した蚊やカラスと同じく、僕の内臓の動きも活発になり、エネルギーを欲しているらしい。
だから晩ごはんの時間も待ちきれず、いつもより早く、おばあの家に向かう。辺りはまだ明るく、路地裏のプランターには色とりどりの小さな花が満開だ。密を吸っていた大きなカラスアゲハは満足した様子で、ひらひらと舞い上がり、山の方に向かっていった。
季節がまた一歩進んだことを実感しながら、おばあの家の玄関に足を踏み入れると……暖かい!? おばあの家の中だけ、さらに数歩先の季節が訪れているみたいだ。どういうことなんだ!?
恐る恐る居間の戸を開けると、むわっと蒸し暑い空気が流れ出てきた。まさか、と思って灯油ストーブに目をやると――
真っ赤に燃えている!? しかも調節つまみは真冬と同じ、最強の位置。背中にじわっと汗が噴き出してくるのを感じて、僕は薄手のパーカを脱いだ。部屋の空気は、Tシャツ一枚がちょうどいいくらいに温かい、というより暑い!
おばあ、暑くないんか!? 疑問をぶつけようと、おばあの席に目をやると――
イスに深く腰掛けたまま、頭をこっくりと倒して眠りこけていた。
おばあの席には、空の食器が積み重なっている。おばあも僕や虫たちと同じく、暖かくなって食欲が増しているのだろう。だからいつもの晩ごはんの時間が待ちきれず、先に食べてしまったのだ。
寒がりのおばあは、ちょっとだけ部屋を暖めるつもりでストーブをつけたのだろう。ところが腹が膨れて眠気に襲われ、そのまま寝てしまったのに違いない。
だとしたら、部屋を無駄に暖めているストーブは、早く消してしまったほうがいい。そう思ってストーブの前にしゃがむと、
「何してんねん!」
と背後から怒鳴り声がした。なぜだ!? 褒められることはあっても、怒られるようなことはしていない。
「何って、ストーブ消してるんや。暑いやろ」
そう僕が説明すると、
「魚焼いてるから、つけてるんや! もうちょっと待っとれ!」
おばあはまた声を荒げた。たしかにストーブの上のフライパンに乗っていたのは、――
白身魚の切り身。パチパチと脂がはじけ、香ばしいかおりを放っている。魚を焼くなんて、はじめから長時間、ストーブをつけておくつもりだったのか!? 暑いとは思わないのか、おばあ。
脳の機能が衰えてくると、感覚が鈍くなるという話を聞いたことがある。最近、おばあは物忘れが増えてきている。単なるど忘れだと思っていたけど、暑さや寒さにも鈍感になるほど、脳が衰えていたのか!? もしかして、僕が考えている以上に、おばあがボケているとしたら……。今日が何月かもわかっていなくて、ストーブをフル稼働させている!? そうだとしたら、僕はこれからどうすれば……。いや、まだそうだと決まったわけじゃない。まずは、確かめてみなければ。
「おばあ、今日が、何月何日かわかるか?」
ゆっくりと、少し大きな声で聞いてみる。すると、
「なんや!? そんなんわかっとるわ!」
と怒鳴られた。はっきりいわないところが、ますます怪しい。だけどこれ以上、問い詰めることもできない。何をどう聞こうか迷っていると、
「ごはん、入れてこい!」
とまたおばあの指令が飛んできた。ここは、ひとまずいわれた通りにする。そして台所に行き、炊飯器のフタを開けると――
豆ごはんだ! えんどう豆の緑色と、ほくほくとした香りが、春を感じさせる。おばあ、疑ってごめん……。ボケてなんかいなかったんだ。ちゃんと今が、えんどう豆がおいしい季節だということをわかっている。
豆ごはんを茶碗によそって、食卓に戻ると、
ストーブで焼いた焼き魚を、おばあが皿に移してくれていた。
メニュー
・知らん魚の焼いたん
・エンドウ豆の豆ごはん
・アスパラガスのロースハム巻き
・酢レンコンと紅白なます
・厚揚げとタケノコと手綱こんにゃくの煮物
・サラダ
生:トマト、玉ねぎの醤油漬け、キャベツ 茹で:ブロッコリー、アスパラガス、ほうれん草
このふっくらと焼き上がった魚、素材の良さといい、焼き加減といい、見るからに完璧だ。箸をつけるとほろほろと崩れ、澄んだ脂が染み出してくる。口に入れると、塩加減もちょうどよく、淡泊な見た目に反して甘い風味と、濃厚なうま味が感じられる。
たまらず続いてかき込んだ豆ごはんも、焼き魚によく合う。こちらの塩加減は控えめで、ホクホクのエンドウ豆と焼き魚が、おいしさを引き立て合っている。
相変わらずストーブはフル稼働しているけど、これをおばあがつけた理由も、暑すぎる部屋の温度も、もうどうでもいい。このストーブのお陰で、絶品の焼き魚が食べられる。今の僕に、それ以上、重要なことなんてない!
ただひたすら、料理を味わいながら食べすすめる。
やがて、ほとんど食べ終えると、ストーブ問題とはまた別の疑問が浮かんできた。
「このおいしい魚、なんていう名前なんや?」
おばあに尋ねると、
「そんなん、知らんわ!」
と即座に大声が返ってきた。出た!〝知らん魚″だ。
どうしておばあは、名前もわからずに魚を買ってくるのか。あれだけ完璧に魚を焼けるのだから、ボケているわけではないのは確かだろう。だとしたら、なぜなのか? 今度、おばあの買い物に、荷物持ちという名目でついていってやろう。僕はひとりでそう決めたのだった。