おばあの家まで歩くわずか5分のあいだに、手袋をはめているのに指先がかじかみ、むき出しの顔面は寒風を受けて感覚がなくなった。玄関に入ると眼鏡が曇りはじめ、居間に足を踏み入れた途端、視界が白いもやに包まれた。イスに深く腰かけて石油ストーブにあたりながらうとうとしているおばあの姿が、白くかすんで見えなくなる。おばあが天に召される瞬間に遭遇してしまったのかと思って、僕はその場に立ち尽くした。
「さっさと戸、閉めえや! 寒うて、心臓マヒ起こすわ!」
おばあの怒鳴り声が聞こえ、僕は慌てて戸を閉めた。眼鏡の端のほうから視界が晴れていく。テーブルの上では、アルマイトの大鍋から湯気が立ち上っていた。
鍋の中はおでんがひしめいている。寒い日にあつあつのおでんはうれしい。両手で抱える大鍋がほとんど満杯で、僕とおばあの2人では到底、1日や2日で食べきれそうもない量だ。
おばあが大量のおでんをつくったのは、ここ数日の寒さがいつになく厳しいからかもしれない。あつあつのおでんをたらふく食べれば、体の芯から暖まる。だからたっぷりつくってやろう、とでもおばあは考えていそうだ。おばあは後先考えないところがあるし、料理はいつも多めにつくりがち。気温が低ければ低いほど、おばあがつくるおでんの量は多くなるという法則がありそうだ。
ストーブの上には片手鍋がのっていて、茶わん蒸しが湯せんで温められていた。スーパーで売ってる一番安い98円のやつだ。しかも松茸が入っている! 値段を考えると、外国産で量はちょっとで香りもほどんどしないだろうけど、松茸の文字を見ると期待してしまう。
テーブルにはローストビーフまである。じっくりと低温で焼かれたであろう、血が滴りそうなほど赤い肉の色が食欲をそそる。顔を近づけると、上にかかったデミグラスソースの甘辛く芳醇な香りがした。おばあはこんなシャレたものをつくれるわけもなければ、どこで売っているかもわからないはず。肉好きだった死んだおじいのお供えに、知り合いがくれたものだろう。
メニュー
・おでん
牛すじ、大根、厚揚げ、手綱こんにゃく、ごぼ天、じゃがいも、ちくわ
・松茸入り茶わん蒸し(みやけ食品。スーパーで98円)
・ローストビーフ(買ってきた)
・白菜キムチ
・サラダ
生:トマト、キャベツ 茹で:ブロッコリー、アスパラガス、ほうれん草
・ごはん
鍋一杯のおでんに松茸入り茶わん蒸し、ローストビーフと、なかなか豪華な夕飯のメニュー。ところがただひとつ、残念なことがある。おでんの大根は芯まで茶色で見るからに味が染みているし、脂抜きという下ごしらえが必要な牛すじ肉もたっぷり入っている。そしてここに、たまごが入ってさえいれば、何もいうことはなかった。
おでんといえば、大根や牛すじ、ちくわもいいけど、やっぱりたまごが一番好きだ。おばあは毎朝茹でたまごを食べているし、おでんダネとしても嫌いじゃないはず。それなのに、なぜ入っていないのか。一度茹でてから殻をむく手間が面倒だというなら、何度も茹でて余計な脂を捨てる牛すじの脂抜きだって手間がかかる。それにこれだけの量のおでんを用意するなら、たまごを入れてくれたってよかった。あらかじめいってくれれば、たまごの殻むきくらい手伝ったのに。
とはいえおでんはおいしそう。大根に箸をつけると、染み込んだゆつをあふれさせながら簡単に崩れた。口に入れるとじゅわっと熱いつゆが広がる。息を吐きながら味わい、ゆっくりと飲み込む、醤油は薄めで牛すじから出たうま味が効いている。
「明日もおでんやで」
とテーブルの向かい側からおばあがいった。そんなことわかってる。これだけの量、一晩で食べきれるわけがない。そうだ! 明日もおでんなら、減ったところにたまごを追加すればいい。下ごしらえだったら、僕が手伝ってやる。
「たまごやったら、殻むき手伝うで!」
思わず力を込めていうと、
「手伝いはいらん!」
とさらに強い口調で断られた。
プライドの高いおばあは、人の手を借りて料理をするのが気に食わないのだ。だけどこれで希望が持てる。明日は久しぶりに、おでんのたまごが食べられるかもしれない。
茶わん蒸しをスプーンですくう。楽しみにしていた松茸は、小さなかけらのようなものが数個、表面近くにあるだけだった。口に入れると、いい香りがした。