大阪城の桜が満開らしい。約3000本という敷地内の桜が、一気に咲き誇っているのだ。見渡すかぎりピンクの花びらが広がり、その背後には大阪城の天守閣が力強くそびえる、一年のうち今しか目にすることができない幻想的な景色! ああああ……見に行きたい! だけど行けない……。
昨年度末から新年度にかけて、やるべきことが山のように溜まっていた。早くやらななければと思えば思うほど、作業は一向にはかどらない。
おばあのおにぎりを携えて、環状線の電車に揺られ、桜が満開の大阪城公園までピクニック! なんて、やっている場合じゃない。ひとまず難しいことは置いておいて、すぐにできることから片付けていこう。というわけで、まずは郵便局に行って、仕事関係の書類や荷物を出すことにした。
服を着替えて、陽の光がとどかない穴ぐらのような部屋から出たら、ぐわあああああっ! と叫びそうになるほど、外には強烈な光が降りそそいでいた。しかも思っていたよりずっと暖かい。厚手の上着を脱ぎすて、マスクも外して鼻から思い切り息を吸い込んでみる。鼻の奥がまったくむずむずしない。
いつの間にか、呪われたスギ花粉の季節は、まばゆい光で浄化されていた。そうだ。春は大阪城だけにやってくるわけじゃない。
僕は郵便局で用事を済ますと、自転車に飛び乗って、そのまま近くの神社に向かった。すると、思った通りーー
桜が満開だ!
雲ひとつない晴天に、桜が咲きほこっている。その様子をぼうっと眺めていると、肩の力が抜けていく。こわばっていた心がときほぐされていくみたいだ。
あたりには、中年夫婦の参拝客と、ベンチでカップ酒をすすっている二人組のおじいさんしかいない。ここには桜の木は数えるほどしかなくても、花見客でごった返す大阪城公園よりのんびりとした時間が流れている。
初詣以来のお参りをして、今年初の冷たい缶コーヒーをベンチに座って飲んだあと、僕は神社をあとにした。
家に帰ると滞っていた仕事がスムーズにすすみ、ToDoリストの山がずいぶんとなだらかになった気がした。
春の日差しを浴びて、気持ちに余裕ができると、血流もよくなり体温は1℃くらい上がった気がする。体は温かく、気持ちは軽やかだ。今晩は冷やしうどんとかソバとか、冷たい麺類でもつるつるっとすすりたい。
そんなことを思いながら、晩ごはんを食べにおばあの家にやってきた。すると、テーブルに乗っていたのは、なんと――
大きな鍋!? 手で触れると、熱い! 部屋の中がやけに暖かい、というより蒸し暑いと思ったら、灯油ストーブも真っ赤に燃えている!
もうあたりの桜は満開だというのに、おばあの家にだけ、春はまだ訪れていなかったのか……。
それにしても、鍋の中身は何なのだろうか? まさか、おばあの好きな、熱さと辛さで体が芯から温まるキムチ鍋!? いや、そんなはずは……。
額に汗がにじんできたのを感じながら、おばあが鍋のフタを取るのをじっと見守っていると、湯気とともに現れたのは――
おでんやないか! キムチ鍋に負けず劣らず、凍えるような冬の夜が似合うメニューだ。
聞きたいことはいろいろあるけど、
「冷めへんうちに、早よ食べや!」
とおばあが大声で急かすので、僕は黙っておでんを小皿に盛った。
メニュー
・おでん
牛スジ、厚揚げ、手綱こんにゃく、タケノコ
・ポテトサラダ(手づくり)
たまご、ジャガイモ、ニンジン、キュウリ
・知らん魚の焼いたん
・酢ゴボウ
・酢の物
キュウリ、タコ、ワカメ
・サラダ
生:トマト、玉ねぎの醤油漬け、キャベツ 茹で:ブロッコリー、アスパラガス、ほうれん草
・ごはん
今晩のメニューはおでんだけじゃなくて、他のおかずも何だか気合が入っている。
ポテトサラダはいつもの買ってきたものではなく、たまごが入ったおばあの手づくりだし、
メインのおかずにもなりそうな、赤い魚を焼いたものもある。ちょっと焼きすぎてはいるけど、香ばしいかおりが食欲をそそる。ストーブの上でじっくりと焼いたのだろう。
正月のおせちで必ず出てくる、酢ゴボウまである。
そういえば……去年も桜が咲いたころに、おばあはおでんを出していた。春を感じる日におでんを食べるのは、一種の儀式かもしれない。おばあなりの方法で、寒い冬に別れを告げ、暖かい春の到来を祝っているのだ。それにしても、おでんにストーブとは、ちょっと暑すぎないか?
「なんで今日、おでんなんや?」
素直に疑問をぶつけて見ると、おばあは即座に、
「食べたいからや!」
と声を荒げた。なんだって!? 熱々のおでんは、春を迎える儀式じゃないのか!?
「じゃあなんで、スト―ブつけてるんや?」
納得できない僕は食い下がる。するとまた、
「寒いからや!」
と大声が返ってきた。冷え性気味のおばあにとって、今日はまだ寒いのか? 本当にそれだけなのか?
頭の中にぐるぐると渦巻く疑問に、考えをめぐらせていると、
「冷めるやろ! 目の前のもんさっさと食べや!」
と怒鳴られた。
そうだ。その通りだよ、おばあ。と僕はそのとき理解した。わからないことをいつまで考えてたって、どうにもならない。できることからはじめようと家を出たから、満開の桜を見ることができたんだ。
おでんは食べたいからつくった、ストーブは寒いからつける。おばあにとっては本当に、そんな単純なことなのだろう。
さあ、目の前のおでんを食べよう。そう思った途端、昼間の缶コーヒーから、何も口にしてなかったことを思い出した。そうだ、僕はお腹が減っていたんだった。