「ごめん、遅れた!」
僕は謝りながら居間の戸を開けた。おばあはイスに深く腰掛けて、半開きの目で選挙後の沖縄を写すテレビをながめている。先に晩ごはんを食べ終えてお腹がいっぱいらしく、今にも眠ってしまいそう。
僕が部屋に入ると、おばあの目がぱちりと開いた。そして一瞬だけこちらに視線を向けるだけで、膝に手を置いて立ち上がり、無言で台所に向かって行く。
「もしかして、怒ってる?」
背中に語りかけても返事がない。そのまま台所の奥に向かって進んでいく。いつもの晩ごはんの時間に5分遅れただけで小言をいうおばあだ。今晩は20分以上も連絡せずに遅れてしまったのだから、たいそうご立腹だろう。
「急ぎの仕事があって、連絡できんかったんや。ごめん」
理由を告げて謝っても、まるで効果がない。おばあは黙って冷蔵庫を開け、生たまごを取り出した。それを流し台の角にぶつけてヒビを入れ――
オレンジのフタがついたカップに、
中身を割り入れた。
生たまごを入れたカップの中身は、縮れて乾燥した麺や、豚の顔のカマボコなどの具材……これは、エースコックのワンタンメン! 以前にも一度、おばあが夕飯に出したことがある。想像以上においしくてボリュームもあり、ワンタンの食感がインスタントとは思えないほどツルツルとしていたことをはっきりと覚えている。
数あるカップ麺の中からまたこのワンタンメンを選ぶとは、おばあもかなり気に入ったのだろう。しかも今回は、生たまごまで追加するなんて! 想像しただけでわかる、これは絶対に合う!
おばあは遅刻した僕に怒っているかもしれないけど、おいしいものを食べさせたい気持ちも失っていない。いや、僕においしいものを食べさせようとしていたからこそ、黙って遅れたことが許せないのだ。
ごめんよ、そしてありがとう、おばあ。しっかり味わって食べるよ。と申し訳なさと感謝の念がこみ上げてきたところで、
「邪魔や。そこどけ」
おばあが僕を押しのけて、ガスコンロの方に向かっていった。
コンロの上の鍋の中では、豚肉が茹でられていた。火は消えていたけど、おばあが点火するとすぐにお湯が沸騰した。
この豚肉も、まさか……そのまさかである。鍋を手にしたおばあは、うすい豚肉を菜箸でつまんで――
一枚ずつ、
ワンタンメンのカップに加えていった。なんという豪華なカップ麺!
ここまで手間をかけるなら、いっそ袋麺にしたほうが……いや、そんなことはどうでもいい。おばあは今、半世紀以上に及ぶ調理経験の中から、このエースコックのワンタンメンに合う具材を選んで、僕に食べさせてくれようとしているのだ。ここはとにかく、おばあにゆだねよう。
つづいておばあは、豚肉を茹でたお湯をカップに注いで、
フタを閉じ、
「ほら、持って行け。3分待ってから食うんやぞ」
と指示を出した。そんなことわかってるわ! と思ったけど、僕は黙っていわれた通りにする。
メニュー
・エースコックの「ワンタンメン」
・塩サバ
・??の肉巻き
・紅白なます
サバ、大根、にんじん
・サラダ
生:トマト、玉ねぎの醤油漬け、キャベツ 茹で:ブロッコリー、アスパラガス、ほうれん草
カップをテーブルに置くと、おばあも台所から戻ってきた。何やら小さな銀の袋を手にしている。そして僕の席に近づくと、
「これも入れるんやで」
とカップの脇に小袋を置いた。これは――
ワンタンメンの粉末スープだ。ふつうお湯を注ぐ前に入れるものだけど、後から入れるのが〝おばあ流″なのだろうか。
「このスープーー」
と僕が口を開くと、
「ラーメン、そろそろ、ええころやろ」
とおばあがさえぎった。いやいや、早すぎるぞ。まだ1分ほどしか経っていない。
そうか、粉末スープは入れ忘れただけか。それならそうと、はっきりいえばいいのに。最近、忘れっぽくなったことを、おばあは認めようとしない。これだけの料理がつくれるのだから、まだまだボケているなんて誰も思わないし、粉末スープをあとから入れたって味が変わるわけでもない。
3分よりちょっと早めにフタを開け、
粉末スープを入れて、
たまごが潰れないように、ゆっくりとかき混ぜたら出来上がり! つやつやのワンタンに、かわいらしい豚の顔、そこに追加した豚肉や黄色いたまごのいろどりが食欲をかき立てる。
さっそくスープをすすると、うまい! そのまま食べたときよりも、さらにおいしくなっている。タンメン風のスープに、豚肉の脂とうま味がプラスされ、パンチの効いた味わいだ。つづいて麺と豚肉、ワンタンを一気にすすり込む。つるっとしたワンタン、ぼそっとしたインスタント麺、そして脂の多い豚肉が合わさって、クセになるような食感。
それにしても、具だくさんのカップ麺があるというのに、おかずも充実している。
トマトや玉ねぎの醤油漬けを乗せたいつものサラダは、カップ麺に足りない栄養を補ってくれそうだし、
紅白なますは、箸休めにちょうどいい。そして、
この肉巻きの中の野菜は何だろうか? ひとつ食べてみると……春菊だ。独特の風味とさわやかな苦味が、豚肉と合っている。おばあはついこの前、〝女子会″でアスパラの肉巻きのつくり方を覚えてきた。さっそくそれを応用して、おばあの好物の春菊を豚肉で巻いたのだ。さすがおばあ、このオリジナルの肉巻き、なかなかいけるぞ。塩コショウが効いていて、ごはんが欲しくなる味だ。
さらに――
塩サバまである。これはますます、ごはんが食べたくなる。カップ麺があるのにごはんまで食べるのは気が引ける。それにおばあは、ちょっと太り気味で30半ばの僕の健康を気にして、ごはんのお代わり禁止令を出している。
ごはんのことは忘れることにして、ワンタンメンをすすりはじめた。ところが、一度ごはんのことを考えてしまったからか、このワンタンメンのスープがものすごく、ごはんに合いそうだ、ということに気がついてしまった。たまごをつぶすと、さらに濃厚で滋味豊な味わいが加わって……これはもう、ごはんに合わないわけがない!
おばあに怒鳴られることを覚悟で、ごはんを入れてこようか。いやいや、今日はすでに遅刻して怒らせてしまった。さらに声を荒げるようなことがあると、ただでさえ高い血圧が急上昇してしまいそうで心配だ。豚肉とたまご入りのワンタンメンに加えて、おかずもいろいろあるのだから、ごはんは我慢したほうがいいだろう。だけどスープをすすれば、やっぱりごはんをかき込みたくなる。
ひとりで葛藤しながら料理を味わっていると、おばあが
「これ、出すの忘れてたわ」
そういいながら、僕の目の前に差し出したのは――
ごはんだ! おばあ、いいのか? ラーメンとごはん、炭水化物の重ね食べを許してくれるのか?
きっとおばあも、今晩のワンタンメンを味わい、ごはんを食べずにいられなかったのだろう。だけど無駄な脂肪がつくのも避けたい。そういう葛藤を、おばあも抱えたのに違いない。目の前のごはんの量が、いつもより少ないことがそれを表している。
「何してんねん、さっさと食べや! 片付かへんやろ!」
おばあが急かす。僕は慌ててごはんをほおばり、ワンタンメンのカップに手を伸ばした。