玄関にまで漂っている、この濃厚でこうばしい香りは、揚げ物だ!
ここ2か月ほど、おばあはまったく揚げ物をつくっていなかった。それどころか、野菜ばかりの精進料理みたいなメニューを出したり、いつもつくるサラダの量が増えていたり、〝肉食系″のおばあにしては珍しく、ヘルシー志向がマイブームになっているらしかった。
それにおばあは、30代の折り返しをすぎた僕の体が、太ってきたことを心配していた。自分でも腹回りに肉がついてきた気がする。だから、たまには唐揚げが食べたいわ! とか、なんでトンカツつくらへんねん! とリクエストすることもなかったし、外で食べることがあっても、好きな油物や麺類は避けて節制していたのだ。
やせた実感はまったくないけど、おばあはどうして揚げ物を解禁したのだろう……。釈然としないまま居間の戸を開けると、テーブルに山積みになっていたのは――
メニュー
・鶏の唐揚げ(ヒガシマル「揚げずにからあげ」使用)
・ひきわり納豆
・タケノコとサトイモの煮物
・茶碗蒸し(みやけ食品)
・酢の物
タコ、キュウリ、ワカメ
・サラダ
生:玉ねぎの醤油漬け、キャベツ 茹で:ブロッコリー、アスパラガス、ほうれん草
・ごはん
鶏の唐揚げ! いつぶりだろう、これを最後に食べたのは。ああ……うまそう。かぐわしい香りにつられて、思わず顔を近づける。見るからにこんがりと揚がった濃いめのきつね色が食欲をそそる。
小さなつぶつぶが混ざっている衣は〝揚げずにからあげ″だ! これはフライパンで焼くだけで唐揚げができる便利な粉である。ハイカロリーな油をカットできるので、ダイエットしたい食いしん坊にはぴったり。だけど――
山盛りの唐揚げの下に敷いてある油吸着シートには、油のあとが広がっている。そもそも油不使用なら、こんなシートを敷く必要がない。おばあはなぜか〝揚げずにからあげ″を鶏肉にまぶしておきながら、たっぷりの油で揚げてしまうのだ。以前も同じことがあった。僕が太ってきたと心配するなら、そこは名前どおりに、揚げずにつくってくれよ!
だけど、そんなこと口には出せない。「文句いうなら食うな!」と短気なおばあにキレられて、今晩はもう口も聞いてくれなくなるだろう。久しぶりにつくってくれた鶏の唐揚げは、楽しい気分で味わいたい。
「何してんねん。さっさと食べや」
おばあはいって、箸でつまんだ唐揚げをがぶりとかじる。そうだ、僕もこうしてはいられない! 急いで箸を持ち、おばあに続く。
噛むとカリカリに揚がった衣の中から、熱い脂が染み出してきた。油を使っているだけあって表面はまんべんなくしっかり揚がっているけど、内側の肉は柔らかく、熱の通り具合はちょうどいい。
僕の体型を気にしていたおばあがなぜ今晩、鶏の唐揚げを出したのか。そしてなぜ、また〝揚げずにからあげ″を揚げてしまったのか。そんなことはもう、どうでもいい。好物が目の前にあるのだから、何も考えず思う存分食べまくってやる! そこに鶏の唐揚げがあるから食べるんだ! そう決意して、ひとり密かにテンションの上がった僕は、一気に3つ平らげた。
少し落ち着くと、他のおかずも目についた。メインの唐揚げ以外も、充実しているじゃないか。
お馴染みの酢の物に、
5種類も野菜を使ったいつものサラダ(今晩はトマト抜き)があるし、
タケノコと里芋の煮物が、おにぎり型の小皿に上品に盛り付けられ
スーパーで買ってきた茶碗蒸しまである。それに、特に目をひくのはーー
納豆だ! しかもひきわり!? どうして久しぶりの納豆に、変化球のひきわりを選んだのだ。特売の普通の納豆よりちょっと高いのに、わざわざひきわりにしたのは何か理由があるはずだ。そもそも、匂いが苦手で納豆を顔に近づけることさえできないおばあに、一体納豆の何がわかるというんだ!?
僕もひきわり納豆は、1年以上は食べていない。タレを入れて混ぜてみると、粘りがすごい。糸を引くというより、細かな粒同士がひっついてかたまりになっている。それをドバっと――
ごはんに乗せる。ひとくち食べてみると、粘りが強いせいか、普通の納豆よりうま味が強いように感じる。そして口の中でねっとりとペースト状につぶれていく。これは、もしかして! と僕はひらめき――
鶏の唐揚げを3つ、さらに納豆ごはんの上に乗せてみた。すぐさま鶏の唐揚げをかじり、納豆ごはんをかき込む。やっぱり、思った通り! カリカリの衣とトロっとしたひきわり納豆の食感、そして濃厚な納豆のうま味と鶏肉の脂のおいしさが溶け合って、なんともいえない絶妙な味わいになっている。
おばあは納豆を食べられないのに、どうしてこの組み合わせに気づいたのだろうか。僕においしいものを食べさせたいというやさしさと、84年の経験がなぜるわざか。
「これ、うまいよ! おばあ」
僕は思わずいって、バクバクと鶏の唐揚げをほおばった。するとおばあは、うれしそうな様子は微塵もみせず、真顔のまま
「さっきからお前、唐揚げばっかり食べすぎやで! もうええ加減にせえ!」
と声を荒げて忠告してきた。
どういうことだよ、おばあ!? 鶏の唐揚げが目の前にあるから、食べているだけなのに‥…。まだ僕の体型が気になるというなら、揚げ物なんて出さなかったらよかったんだ! そう思ったけど、口に出すことはできない。抗議なんてしたら、短気なおばあに怒鳴られたうえに、唐揚げの容器ごと台所に没収されてしまいそうだ……。しばし悩んだすえ、僕にできるのは、粘り気の強い納豆が乗ったごはんを、黙ってかき込むことだけだった。