30代の孫にお年玉をくれるおばあ、2日目のすき焼きに鶏肉投入!

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居間の戸を開けると、おばあが灯油ストーブにあたりながらテレビを見ていた。
「肉、入れたったで」
と僕に目も向けずにいう。肉といえば、すき焼きのことだ。昨日の晩ごはんに出てきたすき焼きには、メインであるはずの牛肉がほとんど入っていなかった。

代わりに肉厚の生シイタケが鍋を埋め尽くしていた。シイタケはおばあの故郷、愛媛の山奥から送られてきた原木栽培。ふんだんに含んだうま味と甘辛い割下がぴったりと合い、表面はふわっとしているのにコシのある絶妙な食感が、僕とおばあの箸を止まらなくさせた。

すき焼きにした生シイタケは想像以上においしかったけど、牛肉が少ししか食べられなかったのは正直、心残りだった。シイタケは昨晩、僕とおばあが競い合うように箸を伸ばし、残り少なくなった。2日目となる今晩はそこへ、牛肉をたっぷり追加してくれたのに違いない。味が濃くて柔らかいすき焼きの牛肉は、僕だけじゃなくて、おばあも好物なのだ。

期待を込めてテーブルの鍋をのぞき込むと、

シイタケのすき焼き(2日目)に鶏肉を投入

牛肉がない! ひとかけらも見当たらない。牛肉は昨日、わずかな量を僕とおばあで食べつくしてしまったままだ。だけどおばあは嘘をついているわけではなかった。中央あたりのシイタケがなくなったスペースに、白っぽい鶏肉が追加されている。たしかに肉である。でも、すき焼きの肉といえば牛肉じゃないのか。

「贅沢ばっかりでけへんからな」
とおばあがいう。僕の心の中を見通すように、すき焼きの鍋越しにまっすぐ目を向けてくる。そして箸をつかみ、すき焼きを取り皿によそいはじめた。贅沢ばっかりって、原木栽培の生シイタケをたらふく食べたのはたしかに贅沢だったかもしれない。でも生シイタケは、おばあの故郷の親戚から送られてきたもので、お金を払ったわけじゃない。そのぶん、すき焼きの2日目に少しくらい牛肉を追加してもよさそうなものだ。

とはいえ、おばあに文句はいえない。僕は料理をつくってもらっている立場なのだ。

鶏肉を入れたシイタケのすき焼き(2日目)など、おばあがつくった晩ごはんのメニュー

メニュー
・すき焼き(2日目)

鶏肉、生シイタケ、牛肉、大根、しめじ、えのき
・酢だこ
・大根の浅漬け

・そら豆煮(正月の残り)
・酢レンコン(正月の残り)

・ごはん
・サラダ
生:キャベツ 茹で:ブロッコリー、アスパラガス、ほうれん草

僕は鶏肉やシイタケを小皿に取り分ける。大きなシイタケの下に、ひとかけらの牛肉を見つけた。それを箸先で優しくつまみ、皿の端にそっと置いた。

昨日よりも割下の染みたシイタケを味わい、鶏肉を口に入れる。ぷりっとしたほどよい弾力があり、煮詰まった割下の甘辛い味付けが、身のうま味と皮の甘みを引き立てている。これは、ごはんとの相性も抜群、思った以上のおいしさだ。

一方、一日経った牛肉は脂が抜け、パサパサとしていて割下の味が辛いばかり。再びみずみずしい鶏肉を口に運ぶ。牛肉なんてもう、どうでもいいような気がしてきた。

「贅沢ばっかりでけへんからな」
とまた、おばあがいった。
「おかずは、もらいもんとか、正月の残ったやつやで」

おばあが晩ごはんに出した酢だこ

聞けば、ぶつ切りにしたタコを酢に漬けた酢だこは、おばあの友人からのもらいものだという。その友人はしばらく入院していたけど最近、退院できたらしい。おばあがよく見舞いに行っていたお礼に酢だこをくれたのだ。他にもいろいろともらったそうだ。

おばあが正月に用意していたそら豆の甘露煮

そら豆を甘く煮たものや、

おばあが正月につくった酢レンコン

酢レンコンは正月の残り物だ。

昨日のすき焼きのメインだった生シイタケももらいものだし、鶏肉は牛肉より安い。おばあがいう「贅沢」とは、お金があまりかかっていないという意味らしい。だけど品数は多いし、どれもおいしいし、僕にとってはじゅうぶん贅沢なメニューだ。これさえ毎日食べられたら、ほかに贅沢をしなくてもいいとさえ思う。

食事を終えたおばあが、空の食器をまとめて立ち上がった。そして僕の目を見て、
「お年玉、やろか」
といって、にやりと笑った。そして素早いすり足で、台所に去っていった。

成人してから10年以上、もらっていなかったけど本当にお年玉をくれるのか。それにしても、贅沢はしないんじゃなかったのか。いくつになっても孫に渡すお年玉というのは、おばあにとって贅沢とか無駄遣いとは思わないのかもしれない。しかしなぜ、今になってお年玉をくれるというんだ。僕の経済状況を心配してくれているのだろうか。たしかに贅沢できる身分じゃないけど、特に困窮しているわけでもない。だけど、くれるならうれしいし、ありがたくもらっておこう。

金額はさすがに、小学生にあげるような額ではないだろう。30代の大人がよろこぶくらいはくれるはずだ。僕はどんどん膨らむ期待を抑えつつ、おばあが帰ってくるのをおとなしく待った。

おばあは手に、透明なビニール袋を下げていた。中には小さな白っぽい包みがいくつも入っている。おばあがたまに口にする、食後のお菓子だろうか。お年玉は、ポケットにでも入っているのだろう。紙のお金のはずだから、折りたためば何枚でも入るはず。

おばあはイスに座り、テーブルの上でビニール袋の底をつまんでさかさまにした。ばさばさと白い包みが落ちて、小さな山をつくった。包みの表面に何か書いてある。

おばあが知り合いから貰ってきたお年玉チョコ

紅白の熨斗の絵柄に挟まれて、縦書きで「お年玉 チョコ」とある。なんやねん! さっき、にやりと笑ったのはこういうことやったんか! 僕は叫んでチョコをあたりにぶちまけたかったけど、悔しがる姿を見せれば、それこそおばあの思うつぼだ。

「これも、もらいもんや」
とおばあがいった。抑揚のない平然とした口調なのが、余計に腹が立つ。

お年玉チョコの袋をハサミで切るおばあ

チョコの包みの端はギザギザの切れ目があり、手でも開けられるようになっている。だけどおばあは包みをハサミで切って開けていた。視力が悪くなっているおばあは、細かな作業ができないのだ。
「なんや、おばあ、そんなんも手で開けられへんのんか」
僕は精一杯、嫌味ったらしくいった。そして山からひとつ包みを取り、手で破り、中身をおばあに差し出した。
「開けてやるから、ハサミなんか使わんでええ」
僕はおばあの優位に立っていることを示したかった。ところが、おばあはチョコを受け取らず、
「自分で開けるからいらんわ。自分で開けたら自分で食え」
と、冷静な口調でいい放った。手に持ったままのチョコを投げつけてやりたかったけど、目をつぶってぐっとこらえた。

 

10000円札の形をしたお年玉チョコ

僕は冷静になるため、チョコを置いてじっと眺めた。長方形のチョコには、紙幣の模様が彫られていた。金額は10000円だった。僕はひとつずつぼりぼりと噛み砕き、10個食べた。