玄関の戸を開けた瞬間にわかった。今晩のメニューは、すき焼きだ! おばあ特製の割下を煮詰めた甘辛い香りが、台所から居間を通り抜け、家じゅうに充満している。すき焼きは、おじいの好物でもある。おじいが真顔で写る遺影も今、仏間に行けば、ほほ笑んで見えることだろう。
すき焼きといえば牛肉だ。おじいはすき焼の牛肉だけは、切り落としのおつとめ品を入れることを許さなかった。そのおかげで、今でもおばあがつくるすき焼きには、煮込んでも肉同士がくっついて固まったりしない、ちょっといい牛肉が入っている。すき焼きが食卓に並ぶたびに、普段お菓子や果物をいただいている、おじいの仏壇にお供えしたくなる。
居間の戸を開けた先は、さらに濃密で芳醇な香りで満ちていた。だけど、何かが違う。おばあがつくるダシ汁のような香りが混ざっている。食欲をそそるいい香りだけど何だろう。すき焼きに加えてお手製のダシ汁のうどんがあるとか、豪華な和風のメニューでも用意してあるのか。
テーブルには、底の浅い金属のすき焼き鍋がのっている。だけど、中身は、すき焼きじゃない! いや、すき焼きだけど、いつもは大きなスペースを占める牛肉がほとんど見当たらない。そのかわり鍋中に散らばり、ほとんどメインのポジションに輝いているのが、白い断面に茶色く割下がしみ込んだシイタケだ!
しかもこいつは、よく見かけるものと比べて厚みが尋常ではなく、箸でつまむとみずみずしいほどの弾力がある。原木栽培の生シイタケだ! おばあの生まれ育った愛媛の山奥から送られてきたものに違いない。以前にも、このテーブルに煮物として並んだことがある。
一方で、すき焼きだというのに、牛肉に存在感がない。鍋を占拠するシイタケの下に、ほんのわずかな量が隠れているのにすぎない。しかも数枚が丸くダマになって固まっている。「まあ、すき焼きやし、牛肉くらい入れとこか」くらいの感覚で、おばあは投入したのだろう。これでは、シイタケの引き立て役にもなりきれていない。すき焼きの牛肉が好きだったおじいが見たら、なんと思うだろうか。
メニュー
・シイタケのすき焼き
生シイタケ、牛肉、大根、しめじ、えのき
・紅白なます
大根、ニンジン、サバ
・数の子(正月の残り)
・ごはん
・サラダ
生:トマト、キャベツ 茹で:ブロッコリー、アスパラガス、ほうれん草
とはいえこの前、煮物で食べた、愛媛の山村から直送の生シイタケは、肉厚で食べごたえがあり、味も濃厚でかなりおいしかった。スーパーで売っている菌床栽培の生シイタケでも、他のキノコより値段は高い。原木栽培の大きなやつなんて、ちょっといい牛肉にも引けをとらない高級品だろう。
箸でつまむと、ふわっと沈み込むけど芯のある、心地よい弾力が伝わってくる。歯のあいだでは、ふわっとしたかと思うと、ぷつりと切れる絶妙な食感。甘辛い割下と一緒に強烈なうま味の汁が染み出してきた。噛めば噛むほど唾液が湧き出る。そこへすかさず、ごはんをかき込んだ。
味でも牛肉に負けていない。脂がなくてさっぱりしているぶん、生シイタケのほうが箸がすすむ。それに、薄切りの大根もいい。割下とシイタケのダシを吸ったところに自然な甘みを加え、ごはんにも合う。煮込みすぎていない固めの噛み応えが、やわらかなシイタケの食感のアクセントになっている。
すぐに取り皿が空になり、僕は鍋に箸を伸ばした。おばあもテーブルの向かい側から、シイタケを山盛り取り皿によそっている。
「おじいにも、これ、食べさせてやりたかったな」
僕は思わずいった。ところがおばあは、
「それはあかんわ!」
とたちどころに否定した。
「なんでや。おじい、すき焼き好きやったやんか」
僕がいいつのると、おばあは鍋の中に視線を落とし、
「肉は好きやったけどな、シイタケは好きやなかった」
とつぶやくようにいった。
おじいが生きているときには、たとえ生シイタケが送られてきても、こういう食べ方はできなかったのだ。今日のすき焼きの匂いには、おじいの嫌いなシイタケの香りが混ざっている。そのことを知った今、仏間に行くと、おじいの顔はどんなふうに見えるだろうか。
「シイタケ、こうして食べるのもおいしいな。よく思いついたな」
「なんとなくや。なんとなくやってみただけや」
おばあはぶっきらぼうにいった。そして薄切りの大根を口に入れ、
「それよりも大根、薄く切ってみたんやが、どうや?」
と珍しく味の感想を聞いてきた。
「大根もおいしいで。味が染みてて、甘みもあるし」
僕も大根を口に入れて答えた。するとおばあは、
「大根はじいちゃん、好きやったな」
といって顔を上げ、仏間のほうに目をやった。