居間の戸を開けると、台所のほうから咳の音が聞こえてきた。痰が絡んでいるようで、続けざまに何度も咳き込んでいて苦しそうだ。
台所では、おばあが背中を丸めて口元を押さえていた。僕は床に置いてある「財宝温泉」のペットボトルをつかんだ。中の水をコップに半分ほど注いで渡すと、おばあはぐいっと一気に飲み干した。
「風邪か? 大丈夫か?」
「平気や」
とおばあはいう。
「何か手伝うことあるか?」
「あとは鍋を炊くだけや。手伝いはいらん」
そういっておばあは、口元に両手を持っていき、また咳をした。
コンロの上には土鍋がのっている。沸騰するダシの中には、すでに豚肉や白菜が浸かっていた。流し台には、山盛りの春菊がザルにのっている。おばあは口元から離した手を、春菊の山に伸ばした。
あっ! と僕が声を上げる間もなく、おばあは春菊を片手でわしづかみにし、煮えたぎる鍋に押し付けるように投入した。
「咳した手で、なんで食べるもんに触るんや!」
僕の抗議にも、
「火い通すから大丈夫や!」
とおばあは聞く耳を持たない。
確かに熱を加えれば菌は死ぬだろう。だけど、咳を受け止めたおばあの手には、唾がたっぷり飛び散っているはず。しかも、さっきの咳には痰が絡んでいた……。僕がふたたび非難の声を上げようとすると、
おばあは菜箸を手にして、鍋の中の春菊を押さえつけた。口ではあんなことをいっていたけど、僕から指摘されて、おばあは自分の行為が不衛生だったことに気がついたのだ。
僕が黙ってダシに沈む春菊を見ていると、
「箸使うんは、熱いからや!」
とおばあはいう。
「もうええから、向こうで待っとれ!」
食卓についてしばらく待っていると、おばあがすり足で台所からやってきた。ふきんごしに両手で土鍋をつかんでいる。鍋から立ち上る蒸気を吸って喉がうるおされたからか、おばあはもう咳をしていない。
フタを開けると、湯気が立ち上り、中心できれいに2色にわかれた具材が現れた。片側は肉と白菜、シメジの薄茶色、そしてもう片方は、生より濃く色づいた春菊の鮮やかな緑色だ。
メニュー
・寄せ鍋
春菊、豚肉、白菜、しめじ
・紅白なます
大根、サバ、にんじん
・サラダ
生:トマト、キャベツ 茹で:ブロッコリー、アスパラガス、ほうれん草
・ごはん
春菊は芯の部分に、みずみずしい歯ごたえが適度に残っている。しゃきしゃきと噛むごとに、少し苦味のある独特な風味が口の中で濃くなっていく。クセはあるけど悪くない。いつもより甘めのカツオベースのダシがよく合っている。火の通り具合も味付けも、春菊をおいしく食べるためにちゃんと考えられている。
春菊は火が通ってかさが減っているものの、食べても食べてもなくならない。土鍋の中に緑の分厚い層ができている。さっき僕が台所から離れたあとも、おばあは春菊をさらに追加したらしい。
時間とともにダシには春菊の風味が溶け出し、鍋の具材を何度か小皿に取り分けているうちに、豚肉も白菜も春菊の味しかしなくなってきた。
おばあは細長い春菊を、うどんみたいにつるつるとすすっている。じっくりと味わうように口を動かし、ごくりと飲み込むと満足げに目を細め、また次の春菊をすする。おばあはたしか、鍋に入れた春菊が好物だった。だからといって、これほど大量の春菊を一度に食べきるつもりだろうか。それにこれまで、おばあがつくってきた鍋に、今日ほど春菊が入っていたことはなかった。
「今日の鍋には何で、こんなに春菊ばっかり入ってるんや?」
僕が聞くと、
「医者が野菜食え、いうてたんや」
とおばあは答えた。
風邪気味のおばあは今日、病院に行ったのだろう。そしてたぶん医者から、風邪には野菜を食べるといいといわれたのだ。春菊たっぷりの鍋といい、紅白なますとサラダといい、野菜ばかりでヘルシーな感じがする。
特に味が濃く香りも強い春菊は、いかにも体に良さそうだ。鍋にして食べれば体も暖まり、風邪なんてすぐに吹き飛んでしまうかもしれない。年末の忙しい今の時期に、風邪を引くのはかんべんしてほしい。そう思いながら、僕は鍋の具材を何度もおかわりした。おばあも好物を前にしたときに発揮する、83歳とは思えない食欲で、春菊をすすりつづける。やがておばあと僕は鍋の中身を食べつくした。
おばあは食後、一週間ぶんの薬が入るピルケースを取り出した。おばあはかなりの高血圧なので、毎食後にいくつも薬を飲む必要がある。
白い紙の袋から、病院で処方された薬の束を取り出し、錠剤を一粒ずつ、ピルケースに入れていく。
「今日、病院で測ったらな、血圧、少し下がっとったわ」
おばあは話しながら作業を続ける。口元はゆるみ、うれしそうだ。
「それに、今日は野菜ようけ食べたからな。医者がいうとったくらいやから、血圧はもっと下がるやろな」
なんだって! 医者が「野菜食え」といったのは、風邪にいいからじゃなかったのか。そう尋ねると
「風邪なんか、寝たら治るわ!」
とおばあは声を荒げた。その拍子にまた咳き込む。僕は慌ててお茶を湯呑に注ぎ、おばあに手渡した。