「おばあ、なんでキムチ鍋にしないんや!」鶴橋のキムチあとのせ寄せ鍋

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おばあは自分の目で見たものしか信じない。現代の日本に83年も生きてきて、今でも地球は平らだといい張るし、顕微鏡でしか見えない細菌やウィルスの存在は「気のせい」だという。だからなぜ、風邪が人から人にうつるのか、理屈が全くわかっていないらしい。

僕が居間の戸を開けると、おばあが先に食事をはじめていた。右手に箸、左手にお椀を持ち、テーブルの中心には土鍋が置かれている。そして箸を土鍋に伸ばしたとき、続けて2回、咳をした。両手がふさがっているおばあの口から、鍋の中にダイレクトに唾が飛び散った。そういえば最近、おばあは風邪気味だった。

「鍋に咳をかけるなや! きたないし、風邪がうつるやんけ!」
僕は必死に抗議した。年末に向けて仕事が溜っている今、風邪をひいてしまうと、仕事漬けの正月を迎えることになる。
「風邪は、ひくときはひくんや! そんな細かいこと気にすな!」
風邪はうつるものではなく、運の悪い人がひいてしまう、ロシアンルーレットみたいなものだとおばあは思っているらしい。そのおばあに、何をどう説明すれば僕の願いを聞き入れてくれるのか。

いくら考えても効果的なアイデアは浮かんでこない。テーブルのそばで立ち尽くしていると、おばあが短く息を吸い込み、顔をしかめた。これは、くしゃみが出る前兆だ!

「手で押さえや!」
咄嗟に僕が叫ぶと、その勢いに促されたのか、さすがに大量の唾が鍋にふりかかるのはまずいと思ったのか、おばあは両手で口元を覆った。そして両手の内側で盛大なくしゃみをした。
「いつも、そうやってや」
僕がいうと、おばあは無言で立ち上がり、鍋の耳を両手でつかんだ。そのまま台所に歩いていく。僕のために、鍋の具材を追加して、火にかけてくれるのだろう。

おばあは鍋をコンロに置いて火をつけると、そばにあったザルに手を伸ばした。そこに盛られているのは白菜やしめじ、豆腐など、たっぷりの寄せ鍋の具材。

このままおばあに、具材を素手でつかませてはいけない! おばあはついさっき、その手のひらに向けて、大きなくしゃみを放っていた。

「自分でやるからええ!」
僕はそういって、ザルを引き寄せ胸に抱えた。
「そんなら、勝手にせえ!」
おばあは声を荒げた。僕に目もくれずに背中を向け、床を踏み鳴らすような足取りで居間に戻っていく。

おばあとケンカした僕が自分で寄せ鍋に豚肉を入れているところ

僕はザルの中の具材を菜箸で鍋に投入し、流し台にあったパック入りの豚肉を上に並べた。

おばあとケンカした僕が自分で寄せ鍋をつくっているところ

フタをしようとして、シンクにうどんがあるのを見つけた。薄いフィルムに入ったままの冷凍うどんで、ほとんど解凍できている。
「流しに、うどんもあるから入れや!」
居間から、おばあの大声が飛んできた。親切な内容なのに、口調はキレ気味だ。

鍋にうどんといえば、シメに入れるものだけど、今回ははじめから入れろということらしい。たしかテーブルには、ごはんの入った茶碗が用意されてなかった。今日の主食は鍋に入ったうどんだ。

鍋にフタをして、具材に火が通るまでしばらく待ち、うどんを投入する。

寄せ鍋が出来上がっているか蓋を開けて覗いているところ

さらにフタをして、ひと煮立ちさせたら完成だ。おばあの咳を通じて入り込んだはずの、風邪のウィルスや菌も死滅したはず。

おばあが用意してくれた具材でつくった寄せ鍋(最初からうどん入ってる)

透き通った寄せ鍋のつゆの中で、野菜や豚肉などの具材、そして腰のある冷凍うどんが輝き、湯気を立てている。

寄せ鍋やキムチ、煮ものなど、おばあが用意した晩ごはんのメニュー

メニュー
・寄せ鍋
白菜、春菊、豆腐、豚肉、しめじ、冷凍うどん
・南京と芋の煮物
・白菜キムチ
・サラダ
生:トマト、キャベツ 茹で:ブロッコリー、アスパラガス、ほうれん草

鍋はしょうゆベースの薄味だ。白菜の甘みや、豚肉のうま味など、それぞれの具材の味わいが引き出されている。ただ、うどんだけは、他の具材と一緒に口にしないと少し物足りない。濃い味が好みのおばあが、寄せ鍋を薄味に仕上げているのはなぜだろうか。

鶴橋のお土産でおばあがもらったキムチ

取り皿の隣には、白菜キムチが置いてある。近ごろおばあがスーパーで買ってくるものとは、微妙に見た目が違う。白菜を漬けているタレの色に深みがあって鮮やか。一口食べると、シャキシャキした歯ごたえがしっかりのこっているのに、白菜の芯まで味がしみ込んでいる。味はただ辛いだけではなく、複雑なうま味も感じられる。

これは、本場韓国の味と変わらないといわれる、鶴橋のキムチ! おばあの知り合いの、韓流スターファンがたまに行くらしく、土産にくれることがある。

キムチはふつう、ごはんのお供じゃないのか。今日の主食はごはんではなく、鍋のうどん……そうか! キムチをこの鍋の具材と一緒に、取り皿に入れればいいのだ。

寄せ鍋の具材を取り分けた小皿にキムチを投入

キムチを口に入れ、うどんをすすると、思った通り。やや薄めのつゆの味が、味の濃いキムチと合わさって、口の中でちょうどいい具合になる。しなしなとやわらかい鍋の白菜と、みずみずしいキムチの食感のコントラストも心地いい。コシのあるうどんがつるつるすすむ。

しかしなぜ、おばあはこのキムチを鍋に入れて、キムチ鍋にしてしまわなかったのだろうか。キムチといえば、おばあの好物だ。おばあは韓国や北朝鮮の政治体制を毛嫌いしているが、食べ物は別である。鶴橋のキムチなら、容器をテーブルに並べれば、ごはんと同じかそれ以上の量を食べてしまう。

だけど、毎食後に薬がかかせないほどの高血圧のおばあにとって、塩分の高いキムチの食べすぎは、寿命を縮めることになりかねない。だから最近、おばあは買ってきたキムチを、小皿に取り分けて出している。こうすれば、つい容器に手を伸ばして食べ過ぎてしまうことはない。

そうか。キムチ鍋にするより、小皿に入れておいて、取り分けた鍋の具材と一緒に食べるほうが、少ない量で済む。おばあは、僕が口うるさく忠告している減塩を心がけているのだ。

なんだ、おばあは目に見えないものを信じなかったんじゃないのか。風邪はウィルスや菌が原因だと認めないくせに、高血圧は塩分が原因だとちゃんとわかっているじゃないか。

つまり、おばあは自分の健康は心配しているのに、風邪は僕にうつってもいいというのか。

僕は釈然としない気持ちを抱えたまま、どんどん食べ進んだ。そして、ほとんど一人で平らげてしまった。すると、おばあが空になった鍋をのぞき込み、
「お前、そら食いすぎや! 腹壊すで!」
と叫んだ。僕の胃腸の心配をしてくれるなら、なぜ風邪には気を付けてくれないんだ! そういい返そうと思ったけど、鍋がおいしかったのに免じて、今日のところは何もいわないことにする。僕は鍋の耳を掴んで立ち上がり、台所に向かった。

大量の寄せ鍋の具材を一人で平らげて、からっぽになった土鍋