いつものように僕が晩ごはんを食べに行くと、食卓に着いたおばあが――
「何か、足らへん気がするねんな」
と遠くを見ながらつぶやいた。
いつもおばあは食事に対して『出されたものは黙って食え』という、昭和の頑固おやじみたいなスタンスなのに、そんな弱気なことを言うなんて……。
80代後半のおばあは、近ごろさすがにちょっと忘れっぽくなり、動くのもおっくうになってきた様子。日課だった80代の“女子会仲間”と行くウォーキングも、今年に入って中止している。その理由は『コロナが怖いから』ということになっているけど、本当は膝の痛みがひどくなってきたからだと僕は知っている。
それに加えて今の発言……。いよいよ得意だった料理を作ることも面倒になり、今晩の献立は何か物足りない質素なものに……なんてことは、全然ない?! それどころか、テーブルに並んでいる料理、めちゃくちゃ豪華やんか、おばあ! 何も『足らへん』ことないで!
中でもひときわ目を引くのは――
僕の大好物の刺身が2種類! しかも見るからに上等なタイとハマチのハラミが、宝石のようにキラキラ輝いている。それがなぜか生野菜の上にトッピングされ、大きな皿からあふれんばかり!
刺身に敷いてあったはずの――
大根と大葉が別盛りなのは、おばあがわざわざ取り分けたからだ。そんな一手間にどんな意味があるのかよくわからないけど、何だか底知れないおばあの『食』への美意識を感じる。
さらに――
豆腐とワカメと油揚げという、僕の好きな具材がひしめいている味噌汁や、
うす口醤油で茶色くなるまでしっかり煮込んだ、旬のタケノコにチクワ、それに――
納豆という『和』の定番おかずが、刺身を彩る完璧な布陣! こんな刺身定食、お店でもなかなかお目にかかれない! これのどこが『足らへん』ねん、おばあ!
その勢いのまま、タイの刺身を一切れ、箸で摘まんで食べようとすると……ない!? これがないと、たしかに刺身は物足りない。まさか、おばあの直感が正解だったとは……。その正体は、醤油!
「足らへんのは、醤油やで」
僕が言うと、おばあはうつむき――
「なんや! そうか!」
と言いながら、しばらく笑っていた。
『食』に対して完璧主義のおばあだから、料理を並べたあとに何か違和感があったらしい。それが醤油ひとつだったことが、よっぽどおかしかったのに違いない。
とはいえ、醤油くらい自分で出してくるので全く問題ない!
僕もおばあが笑う様子を見ていると、心の底から楽しくなってきた。そして――
醤油を用意して、
おばあの刺身定食を食べはじめた。うっすらとピンク色に輝くハマチのハラミは、プリプリの新鮮な歯ごたえで脂が乗っていて甘みがあって、その味わいが醤油に引き立てられて、笑ってしまうくらい最高だった。