夕飯の時間が待ちきれず、僕はいつもより5分ほど早くおばあの家に向かった。わき目もふらない早歩きでたどり着いた玄関に足を踏み入れ、鼻からひとつ息を吸うと、口の中に唾液が湧き出してきた。ひたいと鼻に汗が浮いているのを感じる。熱した醤油の香ばしさと、さわやかな酸味が混ざった食欲をそそるこの香り。今晩のメインのおかずは、おばあが月に1回は必ずつくる酢鶏に違いない。
酢鶏というのは、酢豚の豚肉の代わりに、出来合いの鶏の唐揚げを入れたおばあのオリジナル料理である。豚肉を揚げる手間がかからず、味付けにはパック入りの酢豚の素を使うので調理が簡単。そのうえ酸味のある濃いめの味が口に合うらしく、おばあは定期的につくらずにはいられないのだ。
僕は靴を脱ぎすて、板の間に駆け上がり居間の戸を開けた。部屋じゅうに満ちた酢鶏の香りが空っぽの胃袋を刺激する。僕が自分の席につくと、ちょうどおばあが台所から深皿を両手に抱えて現れた。テーブルにはすでに、いつもより多くの料理が並んでいる。
メニュー
・酢鶏豚?
鶏肉の唐揚げ(惣菜)、豚肉?、パプリカ(赤、黄)、玉ねぎ、にんじん、しいたけ
・たまごやき
・たけのことじゃがいもの煮物
・茹でもやし
・酢の物
ワカメ、タコ、きゅうり
・サラダ
生:玉ねぎ、春キャベツ 茹で:ブロッコリー、アスパラガス、ほうれん草
・ごはん
おばあは僕の目の前に深皿を置いた。照りのある褐色のあんを、色とりどりの具材に絡めた酢鶏がたっぷり盛られている。
赤と黄色のパプリカにニンジン、玉ねぎといういつもの野菜に加えて、今日は生しいたけが入っている。そして衣があんを吸って適度にふやけた鶏のから揚げと、焼き色がついた白っぽい、うす切りの……豚肉!? どうして酢鶏に豚肉が入っているんだ。わざわざ総菜屋で買ってきた鶏のから揚げと豚肉を入れるなら、たまには豚肉の角切りを揚げてふつうの酢豚をつくってみたらいいのに。揚げ物をすると、油を固めて捨てたりする手間が面倒なのだろうか。
夕飯に手間暇をかけたくないと思っているなら、この品数の多さは何なのだ。
このたけのこの煮物だって、おばあが下処理と調理に長い時間をかけているのを僕は知っている。たけのこには、えぐみの原因になるアクが多いので、米のとぎ汁に何時間もつけてアクを抜く。そのあと弱火でじっくり数時間煮込み、味が染みてやわらかくなったところでこうして食卓に並ぶ。
他にも酸味の加減がちょうどいい酢の物や、
さっとポン酢をかけた茹でもやしもあるし、
いつものサラダにはトマトがないけど、玉ねぎの醤油漬けがどさっと乗っている。
さらにはダメ押しの、たまご焼きまで添えられている。これだけの料理を用意できるなら、豚肉を揚げて酢豚をつくるくらい難なくできそうだ。
そういえば、おばあはこの前〝牛肉入り”の酢鶏をつくっていた。意地でもふつうの酢豚はつくりたくないらしい。
「なんでこの酢鶏には、鶏のから揚げも豚肉も入ってるんや?」
と僕はたまらず、おばあに聞いてみた。
「そりゃあ、酢豚にはいろいろ入ってたほうがええやろ」
おばあは当然のことのようにいった。たしかに具材が多いのはうれしいけど、なんで他の料理はシンプルなものばかりなのに、酢豚だけ毎回毎回、変化をつけてくるんだ。それに僕が「酢鶏」といったのに対して、おばあがこの料理を「酢豚」といい張るのも妙だ。おばあと話せば話すほど、知りたい答えにたどり着くどころか謎が深まっていく。
テーブルの向かい側のおばあは、酢鶏の豚肉を箸でつまんで口に入れた。総入れ歯の口をゆっくりと動かして噛み砕き、ごくりと飲み込む。そのあとわずかに口角を上げたおばあの満足そうな表情を見た僕は、自分が空腹だったことを思い出し、箸とごはん茶碗を掴み取った。
豚肉、鶏の唐揚げ、しいたけ、にんじんと、酢鶏の具材を次々に口に運んではごはんをかき込む。たまご焼き、煮物、酢の物、茹でもやしと食べ進む。おいしくて品数が多く、腹が減っているので箸は止まらない。だけど食べても食べてもなくならない。特に酢鶏は深皿いっぱいに盛られていて、底が見えてくる気がしなかった。