おばあの家のドアを開ける前から、今晩のメニューがわかった。ドアを開けると、僕の大好きなスパイシーな香りが、もわっと濃く漂ってきた。今日は普段とは違う強い香りが混じっている。鼻から空気を吸うたびに、空腹がますますひどくなる。
鍋の中に大量に投入したであろう、ニンニクの食欲をそそる香りが加わっているのだ。仕事が長引いて、いつもの夕飯の時間に30分も遅れてしまい、ただでさえかなりお腹が減っているのに。もう我慢できない。
居間に駆け込むと、おばあは食事を終えてテレビを見ていた。おばあの席はすでに食器が片付けられ、僕に目も向けようともしない。
まずい! 夕飯の時間に30分も無断で遅れてしまったのがいけなかった。仕事を片付けることだけ考えて、電話で一報を入れることを怠ったばかりに、おばあはへそを曲げてしまったらしい。今晩は一言も口をきいてくれないことを覚悟した方がよさそうだ。
おばあの怒りを買ってしまったとはいえ、僕の席のおかずまでは片付けられていない。メインのメニューは台所の鍋の中にあるはず。おばあの機嫌も気になるけど、とにかく今は僕の大好物をかき込んで腹を満たしたい。
両手で抱えるほどの大鍋のフタを取ると、カレーとニンニクの香りが湯気と一緒に立ち上った。鼻から深呼吸せずにはいられない。鍋の中には、とろみの強いカレーがたっぷり入っていた。お玉で混ぜると大鍋からあふれてしまいそうだ。たぶん明日にでも、おばあの友人である独り暮らしの高齢者たちに配るのだろう。
おばあがつくるカレーには、牛すじ肉がレギュラーで入っている。いくら煮込んでも固くならないゼラチン質の多い牛すじ肉は、ダシも出るしカレーに最適だ。今では僕は、ふつうの牛肉が入ったビーフカレーでは物足りなくなってしまった。
牛すじカレーに毎回、少しずつ変化を加えるのが、おばあがつくるカレーのスタイルだ。今回は大量のニンニクを刻んで加えたのに違いない。香りだけでもう、ニンニクとカレーの相性が抜群なのがわかる。
鍋の底からお玉を引き上げる。カレーの色をした半透明な牛すじ肉の固まりが、ごろごろと湧き出して……こない。鍋からカレーをあふれさせながら混ぜてみても、牛すじ肉は一向に現れない。代わりに浮き上がってきたのは、白くぷりぷりとした鶏肉だった。
メニュー
・チキン・ガーリック・カレー
鶏肉、玉ねぎ、にんじん、じゃがいも、ニンニク
・酢の物
タコ、ワカメ、きゅうり
・サラダ
生:ミニトマト、春キャベツ 茹で:ブロッコリー、アスパラガス、ほうれん草
ごはんとカレーを皿によそって食卓に運んだ。牛すじカレーを期待していたから、一瞬がっかりしたけど、よく見たらこれはこれで、すごくおいしそうだ。
他の具材は形がわからなくなるほど煮込まれているのに、鶏肉だけは形をとどめていてみずみずしい。
福神漬けが合うように、カレーの付け合わせとして酢の物もぴったりだろう。
さあ、食べよう! とスプーンに手を伸ばすと、向かいの席でテレビを見ていたおばあが立ち上がり、台所に向かっていった。冷蔵庫を開け閉めする音がする。
戻ってきたおばあは、透明な円筒の容器を抱えていた。それを無言でテーブルに置く。中で積み重なっているのは、スーパーでは見かけたことがないほど大ぶりのらっきょうだ。おばあの故郷、愛媛の山村の親戚が、自家製のやつを送ってくれたのかもしれない。
おばあは僕に腹を立てていても、料理へのプライドは失っていない。自分がつくったカレーを最高な状態で食べてもらいたいのだ。酢の物だけでなく、このらっきょうも付け合わせにして食べることで、さらにカレーがおいしく味わえるのに違いない。
容器に刺さっていたスプーンでらっきょうをすくい、
ごはんの上に乗せた。
僕はスプーンを持ちかえると、真っ先に一番大きな鶏肉に狙いを定めてすくい取った。いつものようにルウは、規定量よりも多めに入れているらしく、スプーンの上でぷるぷる震えるほどとろみが強い。
口に入れて噛むと、鶏肉の柔らかな食感が心地いい。カレーとニンニクの濃い味が、あっさりとした鶏肉にからんでいる。大量のニンニクは、味の強い牛すじよりも鶏肉に合うのかもしれない。おばあはそこまで考えて、今晩のカレーをつくったのか!?
どうせ何を聞いても、おばあは口をきいてくれないだろう。ただ、一口食べて確実にわかったことがある。僕はこのカレーを絶対、お代わりする! 前かがみになって、カレーの皿を引き寄せる。テーブルの向かい側にちらりと目を向けると、おばあは相変わらずそ知らぬ様子でテレビを見ていた。