近ごろおばあは、できないことがあると弱音を吐くようになった。つい先日も、壁に掛けたカレンダーに向かって何やら予定を書き込んでいたかと思うと、「最近あかんわ……目も見えへんようになってきたし……指も思うように動かへん」と、僕に背を向けたままぼそっとつぶやくのだった。
おばあがボールペンの先を押し当てていた日付を見ると〝10じ びよういん″の文字。この日の予定らしいけど、〝病院″だか〝美容院″だかわからないし、ひらがなばかりで線が何重にもなっていて読みにくい。おばあはかつては達筆で、漢字もよく知っていて、毎日すらすらと日記をつけていたのに……。
正直、ショックだったけど「85歳にもなったら、そんなもんやろ。それに、まだまだ人よりできることあるやん」と、僕はできるだけ軽い口調でいった。「そうか……」と力ない答えが返ってきたので、「そうやで! 料理なんて僕にもできんことやってるやん!」と元気よく励ました。実際におばあは食べることに関しては衰え知らずだ。
今日もいつもの晩ごはんの時間にやってくると、おばあは先に食べ終えて、空の食器を台所に運んでいるところだった。高齢になると食が細くなると聞くけど、おばあは夕飯の時間が待ちきれないほど食欲旺盛である。
しかも今晩のメニューは、かなり食べごたえがありそう! 僕の席に並んでいたのは――
メニュー
・豚のスペアリブの焼いたん
・たまご焼き
・タケノコの炊いたん
・タコとキュウリとワカメの酢の物
・茹でもやし
・高野豆腐
・サラダ
生:ミニトマト、玉ねぎの醤油漬け、キャベツ 茹で:ブロッコリー、アスパラガス、ほうれん草
・ごはん
脂身たっぷりの骨付き豚肉、スペアリブだ! これだけでも確実に食べごたえがあるのに――
たまご2個分はありそうな、二段重ねのたまご焼きまである。焦げ目がまったくなく、見るからにふっくらと焼き上がり、ずっしりとお腹にたまりそうだ。
これをおばあは、僕が来る前にぺろりと平らげてしまったのか!? 字なんてうまく書けなくても、85歳でこれだけ食べられたら大したものだよ。
さすがに満腹になったらしく、おばあはテレビを見なががら大きな湯飲みでお茶を飲み、「あああああ……」と温泉にでも浸かったような満足げな声を上げて、一息ついていた。
食が細くなった高齢者は、特に動物性たんぱく質が不足するという。だけどおばあは、豚肉のスペアリブや大きなたまご焼きで、動物性たんぱく質を過剰なほどたっぷりとっている。それに加えて――
タケノコの煮物や、
高野豆腐、
茹でモヤシ。そして――
いつものサラダという、植物性のヘルシーなおかずが、メインの豚肉とたまごの脇を固めている。さらに、今日のメニューで気になるのはおかずだけじゃない! スペアリブの皿の隣には――
塩が入った小瓶が置いてある。これは……まさか!? 小瓶を持ち上げると、「自分で豚肉にかけえ!」と大声が飛んできた。やっぱりそうか。ということは、スペアリブには塩がかかっていないのか!?
「さすがやで、おばあ! この前いった通りにしてくれたんか!」と僕は称賛した。おばあは相変わらず黙ったままテレビに目を向けていたけど、誇らしげに少し胸を張ったようだった。朝晩の薬が欠かせないほど高血圧のおばあにとって、塩分の摂りすぎは命を縮めることになる。だけど濃いめの味付けが好きなうえ、人一倍頑固なおばあは、なかなかうす味にしてくれない。
そんなとき、2人で一緒に見ていたテレビの健康情報番組で、塩や醤油は調理した後に少しずつかけたほうが、より味を感じやすくて減塩になるという話をやっていた。だから僕は、塩や醤油は後からかけるように頼んだのだった。意地っ張りなおばあでも、たったそれだけの手間で健康になれるならと、いう通りにしてくれたのだ。
まずはそのまま、スペアリブをひと口食べてみる。
やわらかい脂身から肉が簡単にはがれ、噛むと熱い脂がたっぷりと染み出してきた。焼き加減は最高。やけどしそうになりながら、味付けがまったくされていない豚肉を味わう。やっぱり少し物足りない。そこへ塩の小瓶を手に取り――
2、3度ささっと振りかける。たしかに塩の粒がダイレクトに舌にふれ、わずかな量で塩味がしっかりと感じられる。豚肉のうま味や脂身のほのかな甘さが、さらに引き立てられている。
たまご焼きもやはり、味がついていなかった。また軽く塩を振りかけて味わう。これなら減塩になるはずだ。おばあも少しの塩で満足できたのに違いない。
おばあは、にぎやかなバラエティ番組に夢中になっている。
「後から塩かけてみて、どうやった?」
と聞いてみると、
「そら、うまかったわ! 好きなようにかけたんやから!」
と間髪入れずに返事が返ってきた。
ん? 〝好きなように″かけただって……。まさか! と思って、おばあが座っている向かいの席に目をやると――
粉雪のような塩の粒が、そこらじゅうに散らばっていた。塩は2、3振りどころか、まんべんなく念入りにかけまくったらしい。そういうことちゃうねん! おばあ!
「塩を後からかけるのはな――」
僕がまた一から説明をはじめようとすると、
「あああああ……」
とお茶を飲んでいたおばあの、露天風呂に浸かったような声にさえぎられた。続けて
「お茶、入れてくれ」
と空の湯呑を差し出した。
もうええわ! と僕は半ばあきらめながら、机の端に置いてあるやかんの取っ手をつかみ、湯呑に注いでいく。なみなみと湯呑が満たされたころには、この番茶をしっかりのんで、せめて摂った分の塩を排出してくれと願っていた。