食欲をそそる醤油と砂糖の甘辛い香りに、この平べったい鉄鍋といえば、僕の好きなあれしかない! 急いでテーブルに着くと、向かい側から――
おばあの手が伸びて来て、フタをつまみ――
勢いよく開けると――
思った通り、すき焼きだ! メインの具材は何といっても、肉好きのおばあがたっぷり入れる牛肉……って、やけに少ないぞ。ほとんど、しらたきとえのきしかないじゃないか! 肉は小さなかけらが残骸のように散らばっているだけで、おいしいところは食べつくされているようだ。
食べたのは、おばあしかいない! 久しぶりのすき焼きを、僕を待ちきれずに食べはじめ、真っ先に箸をつけた牛肉があまりにもおいしくて、夢中でむさぼり食った。その結果、こうなってしまったのに違いない。
その食べた張本人はというと、何食わぬ顔をしてイスに深く腰掛け、テレビをぼんやり眺めている。何だか憎たらしいけど、僕は文句をいえる立場じゃない。つくってくれたのはおばあだし、肉は少ないものの具材はまだ残っている。それに今晩のメニューには、さらにもう一品、すき焼きと同じくらい好きな――
メニュー
・すき焼き
・刺身(マグロ、タイ、ハマチ)
・ほうれん草のごま和え
・サラダ
生:玉ねぎの醤油漬け、ミニトマト、キャベツ
茹で:ブロッコリー、アスパラガス
・ごはん
刺身がある!
マグロ、タイ、ハマチと、味や食感の違いがよくわかる、王道ともいえる組み合わせ。どれも身は透き通り、表面はひかり輝いている。もちろんドリップはまったく染み出しておらず、見るからに新鮮で上質な魚だ。おばあがひいきにしている、目利きの魚屋で買ってきたのだろう。少し値は張るけど、スーパーの特売品とはモノが違う。
こっちはひとりぶんずつ皿に分けていたお陰か、僕のぶんはちゃんと残っている。量もたっぷりあるし、すき焼きの肉がほとんど食べられないことを差し引いても、じゅうぶん満足できそうだ。
それにしても……どうして、すき焼きと上質な刺身が一緒に並んでいるんだ? どちらもおばあと僕が大好きな主役級のおかずなのに、同時に出すなんて豪華すぎないか?
「すき焼きに刺身って、何かいいことでもあったんか?」
半開きの目で眠りかけていたおばあにたずねると、
「……ええこと? あったで。友達の誕生日や!」
とのこと。
そういえば、この前の週末に、おばあは近所の友人と80代だけの女子会を開催した。そのメンバーのひとりがちょうど87歳の誕生日を迎えたので、いつもより豪華な仕出し弁当で祝ったそうだ。
だったらなぜ、また自宅で祝う必要があるんだ? そもそもお祝いする本人はいないし、誕生日からも日にちが経っているのに……。
「おばあの友達の誕生日って、いま関係ないやん。どうしてここで、すき焼きと刺身を食べて、僕と一緒に祝うんや?」
たまらず聞くと
「そらな……」
おばあはいい淀むと、
「食べたかったからや!」
と声を荒げた。
当然の疑問を口にしたつもりだけど、追求した僕が悪かった。おばあは友達の誕生日を口実にして、好きなものを好きなだけ食べたかったのだ。すき焼きの肉をひとりでほとんど食べてしまったことに、それが現れている。
もう余計なことはいわず、僕も黙って好物を堪能しよう。すき焼きの肉をかき集めると、思った以上に見つかった。取り皿がなかったので、ごはんの上に乗せると、あれほど惨めだったすき焼きが――
見事なすき焼き丼になった。これはこれでおいしかったけど、刺身を食べはじめると、白いごはんが欲しくなった。今晩はもう一杯、ごはんを食べてやろう。太るのでいつもは禁止されているけど、おばあだって好きなものを好きなだけ食べたのだから、僕のことも許さないわけにはいかないだろう。